第三章 傷つく者
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 家のどこにも、奏樹の姿はなかった。
「あれ、変だな。母さん何処行ったんだろう」
「部屋の前で会った。買い物に行った」
「あ…そうですか。そうですよね。僕は寝てたんだから、ドクターは母さんが入れたに決まってますよね」
 思わずほっと息を吐いた。昨夜の今日で彼女に会うのは気が重い。
「何かあったか」
 相変わらずの抑揚のない喋り方で、レイアンが尋ねてくる。研究室への出勤途中らしく、軽装ながらもコートを着ているのが新鮮だった。
「い……、あの、はい」
 いいえ、と癖で否定しかけたが、やめた。レイアンが華狩についてどこまで知っているものか分からないが、何かあったのだと確信しなければ彼はそんな事を口にしない。嘘をついて誤魔化しても意味はない。
「ちょっと…」
 上手く話せず、華狩は曖昧に語尾を濁した。
「そうか」
 レイアンはそれ以上訊いてこようとはしなかった。
「座れ。診察と、いくつか知りたい事があって来たんだ」
 リビングのソファに座ると、レイアンがその前に膝をつく。珍しく彼を見下ろす形になって、何だか落ち着かないものを覚える。普段見下ろされてばかりいる所為だ。
「体調は? …熱は、ないようだが」
「大丈夫。もうすっかり元通りです」
 それは嘘ではない。倒れた時にぶつけたらしい肘が多少痛んだが、外傷に関してはレイアンが気にしていないのだから問題はないのだろう。
「そうか。暫く熱が続くかと思ったんだが」
「今回はそんなに酷くなかったみたいです。あの、リアは?」
「昨夜の内に目を覚まして、診察もしたが異常はない。むしろ昨日の一件では、お前の方が疲労した様だな」
「あ…」
 それはそうだろう、と華狩は思う。
 リアは『見られた』だけだ。
「手首を貸せ」
 レイアンは華狩の返答を待たず手首の脈を取る。聴診器も持っていないようだ。必要があれば研究室に行って、また戻ってくるつもりだったのだろうか。
「俺が帰ってから今までに、酷く頭痛がしたり気分が悪くなったと言うこともないな?」
「ないです」
 レイアンは一つ頷くと、立ち上がった。こちらが座っている所為でいつも以上に身長差が生まれるが、華狩はほっとする。
「他に何か気になる事は?」
「特に…あ、でも」
 気になると言えば気になることがあった。これを彼に尋ねるのは違っているかもしれないと躊躇う。
「どうした?」
 レイアンは抑揚のない話し方で、そんな華狩の背中をそっと押す。そう言えば、昨夜もこんな優しさのある話し方をした。
 きっと彼は、本来はとても優しい人なのだ。華狩はそう思いながら口を開いた。
「母さん、何か変わった様子はなかったですか?」
「少し疲れた様子だった。だが、昨日の今日なら別に不思議でもないだろう。他には気づかなかったが」
「そうですか…」
 昨夜の出来事を体調の所為にしたい。そう願うのは、不可能だと承知しているからだ。
 華狩は奏樹を傷つけた。しかし、あれは紛れもない真実だった。奏樹も分かっているだろう。
 奏樹と次に顔を合わせた時に、何を言えばいいのだろうか。
「言い訳を考えておくのも、一つの手ではある」
 レイアンが言った。
「誰に対しても」
 黒い瞳は俯きがちに、しかし何処を見ているとも知れない。
「下手に真実を隠したり、逆に打ち明けるばかりが手段じゃない」
「…そう、ですよね」
 嘘や誤魔化しが卑怯だと綺麗事を言える話ではない。そして、そこまで華狩は純粋にも残酷にもなれない。
「昨日みたいな事は初めてじゃないんです」
 零里とは生れ落ちたその瞬間から共にいる。今も、華狩には見えないけれど、零里は華狩と共にいる。
 零里は今まで何度か昨日の様な事態を引き起こしている。その度に華狩は倒れ、奏樹は悲しそうな顔をする。
「だから母さんにどんな態度で接したらいいかも分かってたんです」
 大丈夫と笑えばいい。もう零里はいないよ、僕も何処にいるか分からない。そう言えば、奏樹は安堵した顔をする。優しく微笑んでくれて、日常に戻る事ができる。
「分かってた筈なのに」
 きっとあれは、華狩が幼かったから出来たことなのだろう。
 零里の声を聞いたのは、本当に久し振りだった。彼の存在を感じる事は時折あったが、それらはどれもとても離れた場所から囁かれているような声で、感じ取る事などできなかった。
「分かっていたはずの事が、突然うまくいかなくなるのは別に珍しいことじゃない」
 何を思い返しているのか、実感のこもった声でレイアンが呟いた。
「うまくいかなくなったのはお前だけじゃない。相手も、それは同じだ」
 昨夜、声をかけるまで奏樹は華狩がそこにいることに気付かなかった。気付かずに、じっと父の写真を見ていた。華狩はあの少しこわばった背中を思い出す。
 奏樹が何を考えていたのか、少し分かる気がした。彼女は彼女なりに、華狩も零里も受け止めようと必死なのだ。
 酷いことを言ってしまった。それは確かだ。
 謝るべきだ。だが、今のまま謝って、また曖昧にしてしまっていいのだろうか。
「距離を」
 華狩は呟く。
「…距離を、置いたほうがいいんでしょうか」
 彼に尋ねても仕方の無いことだと分かりながら、口にせずにはいられなかった。
 レイアンの瞳が、躊躇うように揺れた。
「お前がどうするのかは、お前が決めるべきだ」
 暫くの逡巡の後の彼の言葉は、苦しそうではあったが決して冷たい響きを持つものではなかった。
「だが、距離を置くことと逃げることを間違えるな」
 何故彼がこんなにも苦しそうに呟くのか、華狩には分からない。華狩が詳しく尋ねようかと迷うよりも先に、レイアンは腕時計に目をやって、そろそろ時間だと言った。出勤しなければならないと言う意味だろう。
 レイアンの来訪の目的ではない所で、随分話し込んだ気がする。
「すみません、ドクター」
「いや」
 レイアンはゆるく頭を振る。
「邪魔したな」
「いえ。…あ、何か訊きたい事があるんですよね?」
 気を遣っているのだろうかとこちらから尋ねる。
「いいんだ」
 しかし、返答は短かった。短すぎてそれが華狩への気遣いゆえなのか、それとも本当に疑問が解決した為なのか分からない。
 もしかしたら、それが狙いで彼は寡黙でいるのだろうかと華狩は思った。
「輝に用事がある。お前が休むなら、ついでに伝えておくが」
 レイアンの申し出に一瞬迷ったが、華狩は首を横に振った。
「いえ、大丈夫です。行きます」
 何にせよ、今は家にいたくなかった。家では何も上手く考えられない。
 この状態で、奏樹と同じ場所にいるべきではないのだ。


「あら、おはようございます。ドクター、華狩さん」
「おはよう…ございます」
 情報管理室の輝の部屋の扉を開けると、栄羅がいた。両腕にいっぱいの書類を抱え、どうやら資料室にそれを片付けに行く途中のようだった。
 ここ数日華狩が手伝っている仕事だ。
「何だか不思議な組み合わせですわね」
 彼女はそう言って笑った。何も言わずに朝から仕事を代わってくれている彼女に申し訳ない気持ちを覚え、華狩は俯いた。
「輝は」
「出てますわ。行き先は聞いておりませんけど」
「そうか。戻ってきたら俺のところに来るように言ってくれ」
「分かりました」
 栄羅とレイアンの遣り取りは事務的にかわされる。いつも通りだ。
 言伝を頼めばもうここにいる必要はないと言わんばかりに、レイアンは早足で部屋を出て行った。
「全くもう。おはようとさよならくらい言ったって罰は当たりませんわよね」
 わざとやってるのかしら、と栄羅は呆れ気味だ。
「ただでさえ忙しいのに、僕の所に寄ってくれたから…きっと、時間がないんですよ」
「違うと思いますわ。単純に面倒くさいだけなんじゃないかしら」
 栄羅の声は、思わず俯きがちになる華狩の顔を上げさせる強さがある。
「仮に時間が無いとしたって、華狩さんの診察はドクターの仕事ですわ。それに仕事の前に行こうとしたのはドクターの判断ですもの。華狩さんが気にする必要なんか、何処にもないでしょう?」
 栄羅は抱えていた荷物を机の上に置くと、華狩の目の前に立つ。にこりと笑う彼女は、本当にいつもと変わらない。
 滑らかな両手が華狩の頬を包んだ。
「華狩さん、体調はもう回復されましたのね?」
「…はい」
「それなら良かった」
「あの…昨日の事」
 どう説明したものか、と栄羅を窺うと、彼女は悪戯っぽい口調で言った。
「驚きましたわ。心配もしました。それに正直に言えば、何が起こったのか知りたいとも思いますわね」
「……」
「でも、華狩さんは回復されたのなら、全部どうでもいいんです。私の好奇心なんて華狩さんは気にする必要なんかありません。何しろ興味本位以外の何物でもないんですもの」
 ぴたぴたと軽く頬を叩かれた。
「私がおばあさんになったら、お茶飲みながら『あの時何が起こってたの?』って聞きますわ。その時に答えて下さいな」
「栄羅さん」
「だから、私に言えないことでそんな顔なさらないで。笑って」
 栄羅の言葉は一つ一つが単純で、正直だ。彼女にも言えない秘密の一つや二つあるのかもしれない、と華狩は思う。こんな仕事に就いていて、過去に全く傷の無い訳が無いのだ。
 それでも傷の舐めあいではなく励ましてくれる、栄羅の強さと優しさが嬉しかった。
「…ありがとうございます」
 笑うにはまだ少し無理が必要だったが、華狩は笑った。
「それでいいんですわ」
「え、栄羅さん!」
 強く抱きしめられ、今更ながらこの状況に華狩は慌てた。
 栄羅は気軽に人に触れたり抱きしめたりするが、誤解を招いた事はないのだろうか。
「輝さんに見られたらどうするんですか!」
「一度くらい誤解されてみたいものですわよ、もう」
 華狩の肩に顎を乗せたまま、栄羅は大きく溜息をついた。愚痴ならばいくらでも付き合うから離れて欲しい。華狩はそわそわと目線を彷徨わせる。
 栄羅に言うべきだろうか。気付いてくれないだろうか。
 胸が当たっている。
「そ、そう言えば、輝さん遅いですね」
「家に戻ってらっしゃるんじゃないかしら。…ああ、そうでしたわ。あれを片付けないと」
 栄羅が体を離し、机の上に置きっぱなしの資料を睨みつける。華狩はほっと息を吐いた。
「家に?」
「リアとリフがいるでしょう。いくらドクターが大丈夫だって仰っても、一日中放っておくわけにもいきませんもの」
 一冊一冊が分厚いファイルの束は、全て輝が仕事に使ったものだ。華狩は輝がどんな仕事をしているのか詳しくは知らなかったが、数センチの厚さのファイルを詳細に調べている彼の姿は何度も見ている。
 結局輝一人負担が大きくなっているのだ。
 栄羅も何も言わないが、それを気にしているのだろう。
「昨夜私も手伝いに行ったんですけれど、リフが警戒してしまって。輝さんにも絶対に触らせないみたいなんですの。私と輝さんが話していると気になるみたいで、寝室に行ってもいつまでも起きている気配がしましたし。仕方ないからこっちを手伝っているんですわ。…輝さんじゃないと出来ない仕事ばかりですから、ろくなフォローにもなっていないんですけれど。まあ、上に知らせるわけにもいきませんし、仕方ありませんわね」
 確かに、身元不明の部外者を数日間匿っていたとは言えない。ただでさえ輝はLIVEの情報が入りやすい立場にいるのだ。
「リフ、少し話しやすくなったと思ったんですけれど」
 栄羅は溜息をついた。
 リフの警戒は、昨日の所為なのだろう。彼らをレイアンに診せた時は栄羅が二人を連れて来たのだから。
 不可抗力だと輝も栄羅も言うのかもしれない。しかし、昨日の所為だというのなら、それは零里の所為なのだ。
 そして、零里の所為だという事は、華狩の責任でもあった。
「僕、輝さんの家に行ってきます」
 呟きは、華狩自身が意識するより早く零れた。
 零里の声によく似ていた。
「僕が昨日の事情話せば、リフも心配の種が少なくなるだろうし」
 しかし、零里の声ではない。確かに華狩自身の声だ。
「やだ、華狩さん。私そんなつもりじゃ」
 慌てる栄羅に、華狩は笑みを見せた。
「分かってます。けど、僕が一番適任だと思うから」
「適任?」
「年が近い分、リフは僕になら本音をぶつけやすかったみたいですし。もしかしたら、怒るだけ怒ったらすっきりして落ち着くかもしれないでしょう」
 奏樹に向けた言葉は、決して勢いだけのものではない。もう何年も抱いてきた本音だ。
「それに昨日の事、リフには説明しないわけにいかないと思うんです」
 その本音を、自分から裏切るわけにはいかない。
「もしかしたら輝さんは説明できるのかもしれませんけど、多分僕の事情を説明するくらいなら、輝さんは嘘をつくほうを選ぶと思うんです。嘘をついて誤魔化されるのが厭なんじゃなくて、輝さんにそうさせてしまう僕が厭なんです」
 奏樹に望むのならば、華狩が零里の存在を誤魔化してはいけないのだ。
 自分を責めるような言い方ならばいくらでも出来る。だから、華狩はそれを口にしなかった。
「ドクターの伝言、僕が伝えておきますから。…栄羅さんには話せないのに、ごめんなさい」
「そんな事は、構わないんですけれど。その、無責任かもしれませんけれど、どうか無理はしないで」
 栄羅は優しい。気遣う言葉を無責任だろうかと不安に思う必要など無いのに。
 彼女も輝もレイアンも、華狩よりもずっと必要とされている。そんな彼らの負担ばかりを増やしたくはない。
「それじゃ、行ってきます」
 身を翻した視界の端に、不安そうにこちらを見つめる栄羅が映った。

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