第三章 傷つく者
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 目覚めると、自室にいた。薄暗い部屋の見慣れた天井に、華狩は安堵の息を吐いた。
 知らない世界ではない。それが華狩を安心させた。
「気が付いたか」
 ベッドの脇から、低く柔らかい声が聞こえた。
 ぼやけた視界を、瞬きを幾度か繰り返すことで調整する。勿論知った声であったので隣に誰がいるのか予想は付いていたが、それでもその姿を見て多少驚いた。白衣姿ではなかったのが、意外だった。
「ドクター…」
 出した声が掠れている。
「息苦しくはないか?」
「ええ」
「頭痛は?」
「少し…でも、大丈夫です」
「そうか。一応診察はしておいた。極端に気分が悪くないのなら大丈夫だ。もう少し眠るといい」
 何があったのか、ぼんやりとした頭では考えられない。眠れ、とただ低い声は繰り返し、少し冷えた掌がそっと瞼を覆った。
「あの、ドクター」
 はっきりとしない意識の中で、伝えなければならないことがあったと考える。何故、自分はここに寝ているのか。
 そうだ。倒れたのだ。
「零里が…」
 レイアンはそれだけで全てを察したようだった。瞼を閉じた闇の中、落ち着いた声が聞こえる。
「ああ、分かっている。大丈夫だ。今は眠れ」
 確かに全てを理解している声だ。華狩は再び安堵の息を吐く。
(そうか…)
 レイアンの掌の下で思う。
(この人は、こんな風に話す人なんだ…)
 柔らかく、静かに。
 きっと彼は華狩が眠りに落ちても暫く傍にいてくれるのだろう。掌の心地よい冷たさとその事実に促されるように、華狩は再び眠りに落ちた。


「華狩は?」
 眠りに落ちた華狩を見守っていると、ひっそりとした声がレイアンの耳に届いた。華狩の母だと輝に紹介された女性が、ドアをそっと開けて立っている。
 輝は、確か彼女を奏樹と呼んでいた。レイアンは不安げな彼女に首を横に振って答えた。
「心配はないでしょう。微熱は数日続くかもしれませんが」
 脈も呼吸も正常だ。何より、穏やかに眠っている。
「ただ疲れているだけ…と、医者としては思える状況です。しかし…」
「はい」
「多重人格様の人格共存、しかも互いの繋がりは本人達にも把握し切れていない状況です」
 レイアンは傍らのコートと鞄を持つと、奏樹を促して部屋の外に出た。
「…当たり前の事ですが、私は彼と同じ能力の存在を他に知りません。ですから、正直なところ今後何が起きるか予想も付かない。私では分からない異常があるかも知れない。暫くは気を付けて見ていてください。明日の十一時ごろ、また来ます」
「はい。ありがとうございました」
 倒れた華狩を運んで来た時、彼女は顔を真っ青にしていた。今も俯いたきり、顔を上げようとしない。
 華狩が倒れた。その事を本当の意味で気にしてはいるからではないのだと、レイアンは察している。玄関のドアの前で、暫く戸惑ってから思ったことを口にした。
「彼の能力は、貴方の所為ではない」
 奏樹の答えはなかった。
 そのまま奏樹に頭を下げレイアンが部屋を出ると、そこには輝がいた。コートを着ているところを見ると、これから何処かへ出かけるつもりなのだろうか。
 輝はエレベーターにゆっくりと歩き出しながら、一枚の紙を取り出した。
「リアとリフは僕の部屋です。栄羅さんに頼んで来ました。華狩君は…まだ、なんとも言えませんよね」
 輝の手にしている紙と、リアとリフの居場所は関係のない話だ。レイアンが問うより先にそれを察して答える。輝にとって、それは一種のパズルなのかもしれない。
「読みましたよ、これ」
 輝は無傷の左手で紙をひらりと泳がせる。
 リアとリフの検査結果の報告書だ。栄羅に預けたのを、受け取ったのだろう。
「厄介ですね」
 エレベーターを待つ間の静寂を、輝の声が埋める。
「ただの浮浪児だと思っていたんですが」
 浮浪児がどうにかして銃を手に入れ、薬に溺れる。よくある話だ。輝だけではなく、恐らくは栄羅もそう思っていた筈だ。
 華狩は、もしかしたら分かっていたかもしれないとレイアンは思う。
「ただ親に捨てられただけで、あんな目をする子供はいない」
「そうですか? 僕にはよく分かりませんでした」
「だろうな。お前には無理だ」
「ドクターには分かって、僕には分からない…」
「そうだ」
 輝は答えを問うことはしなかったので、レイアンも詳しくは教えなかった。
 上がってきたエレベーターは、そのままこのフロアで下りになる。乗り込んでレイアンは一階を押したが、輝は他のフロアに行く予定はやはりないようだった。
 エレベーターの中で、輝は再び口を開いた。
「僕からの情報提供です。今日、何者かにANNEがハックされました。実は昨日の朝も同じ人物からハックされているんですが。同じ靴を履いて同じ家に連日侵入する泥棒は、あまりいませんよね」
「ANNEをパズルだと思っているやつは幾らでもいるぞ」
「その泥棒、今日は足跡以外に自分の名刺もそこら中に落としていきました」
「…名刺?」
「別に僕に追われてうっかり名刺を落としたわけじゃ無さそうですよ」
 輝を呼び出すのは、相当の腕利きの仕業だ。ならばそれは偶然ではなく故意だ。
「対象がLIVEなのか、僕達なのか…そのあたりは分からないんですけど。たった二文字、それも英語。しかも、僕達のような人間には一言で十分名刺になる」
 厄介だと言いながら、輝は口許に笑みを浮かべている。それが常のものとは異なる類の笑みであるとレイアンは気付いたが、何も言わなかった。
「…ELか」
「そうです」
 ラファエルやミカエルと言った有名な天使には大抵付いている二文字。高貴なる者を表す言葉だ。
 しかし一般的には、それ以上の意味合いを持つ言葉ではない。
「厄介でしょう」
「どうするんだ?」
 輝は肩を竦める。
「分かってるんでしょ? もう五年の付き合いになるんですから」
 厄介事に素直に巻き込まれてやるつもりはないらしい。
「マリアはもう死んだんだ。約束を守らなくても文句は言わない」
「まさか、僕がそれを承知していないわけがないでしょう。流石に貴方の妹なだけはありますね。彼女は全て見越して僕に約束させた」
 エレベーターが一階に着いた。それを知らせる音に重ねて、輝は言った。
「だから、僕は約束を破らないんです」


 青白く光る画面を飽きずに見つめる双眸があった。
 クロードはそれを暗い気持ちで眺めていた。
「組織もろとも自殺なさるおつもりですか?」
 クロードの問いに、彼は口許だけの笑みを持って答える。
「いい機会じゃないか。あれが逃げ込んだのは政府の機関だ。あれを取り戻すついでに壊してしまおう」
「…私達が死んでしまっては、意味がありません」
「何故だ? 私達は政府のやり方に不満を持っているんだ。ならば政府が壊れるならなんだっていいじゃないか」
「旦那様…」
「向こうもこれを好機と捉えるだろうね。まさか小競り合いを重ねていけば、決着がいつかつくものだと思っているわけでもあるまい」
「何か仕掛けてくるでしょうか」
「始めから正面切っての喧嘩を仕掛けてくることはないだろうが…」
「政府は大義名分がなければ動けません。ならば急ぐべきでしょう」
「そうだな。どんなに小さくても穴を見つけられたらおしまいだ」
 クロードの主人は、若いながらも聡明だった。必要以上に周囲の人間を信用せず、しかしそれを悟らせる真似はしない。
 反政府団体を背負っていながらどこまでも冷静な、リーダー向きの性格を持った男だ。
 だからこそクロードは主人を誇らしく思い、その反面不安でもあった。
 彼はジャスティスに対して、冷静すぎる。
「しかし、LIVEに逃げ込んだのは偶然かな。…偶然だろうな、あれは真実など何一つ知らない」
 LIVEに逃げ込んだ事実を味方につけるのはどちらか。
「ELの名を残したのは危険では」
「きっとあれは警戒して自分達の事を話そうとはしないだろう。だからこちらから教えてやる必要があったのさ」
「何故ですか」
「私達にも多少の大義名分は必要だろう。何の理由もなしに死ねる程、忠誠心に溢れた犬は飼ってない。確信はないがELが捕らわれてるかもしれない、なんて曖昧な事実で敵地に斬り込めとは私も言えないよ」
 ELが政府の機関に捕らわれている。その事実だけははっきりとさせておかなければいけない。
 彼らが保護した子供がELであると言う事実を知れば、LIVEは何らかの反応を示すはずだ。その反応こそが、ジャスティスの起爆剤になる。
「取り敢えずあれの正体は教えた。向こうだって馬鹿じゃない。大っぴらに何かしてくるとは思えない。クロード、周辺によく気をつけておいてくれ」
「分かりました」
 クロードは頭を下げる。
(何故だろう)
 彼が失敗することはない。それは分かっているはずだ。
 それなのに、不安感が付きまとっている。
「しかし、驚いたなぁ。あれが逃げ出すなんて」
 純粋に驚いている口ぶりでクロードの主人は呟く。いつの頃からか、彼はバランスを欠いた物言いをすることが多くなった。
 政府にダメージを与え、壊滅までの道を作ることが、彼の最終目標ではない。きっと彼には、この組織もクロードも必要ではない。
 何故だか、そんな気がしている。


 治るものではないと言われた。これは先天的なものであって、通常のそれとは大きく質を異にしているからと。
(……認めなければ)
 奏樹は息子の寝顔を見つめながら思う。疲れ切った寝顔だ。疲れているのは華狩か、それとも。
「零里」
 奏樹は、久しぶりにその名を呼んだ。
 認めなければいけない。
 奏樹には、息子が二人いるのだ。
(零里も私の息子なんだわ)
 それを母親である自分が忘れてしまっては、華狩も零里も救われない。
 布団を肩まで引き上げてやって、奏樹は寝室を出た。
 リビングに戻り、チェストの上の写真立てを手に取る。写真の中では、少年が笑っていた。
(認めて、愛さなければ)
 零里も彼の子供なのだから。華狩と同じ様に認めて、愛さなければ。
「母さん」
「!」
 不意に背後から声をかけられて、奏樹はびくりと手を震わせた。その表紙に写真立てが床に落ちる。木製のフレームがフローリングを僅かに傷つけた。
「…華狩?」
 奏樹は振り返り、そっと尋ねる。
「うん」
 息子は少しばかり困ったような顔をしていた。
「ごめんね、心配かけて」
「そんな、いいのよ…。いいの」
 吐息と共に吐き出した言葉は、殆ど音になっていなかった。
「眠れないの?」
「うん。でも別に気分が悪いとか落ち着かないわけじゃないよ。ただ寝足りただけ」
「そう。何か飲む?」
「自分でやるからいいよ」
 華狩はしっかりとした足取りでキッチンへ入っていく。奏樹はそれを驚きと共に見つめた。零里が現れたというのに華狩がこれほど冷静でいた事が、これまであっただろうか。
「大丈夫だよ。少し疲れただけだから」
 奏樹の感情を敏く読み取って、華狩は背を見せたまま言う。
「零里は誰も傷つけてない。だから、僕も平気だよ」
「…本当に?」
 奏樹は疑念を隠すことが出来なかった。華狩は苦笑したのかもしれない。
 食器棚からカップを取り出すときに見せた横顔が、そんな表情に見えた。
「母さん、僕は…母さんの言葉を聞かずにこの仕事に就いてしまったけど」
 人を殺す仕事だ。華狩と奏樹が生きるためには仕方のない選択だった。息子に人殺しをさせてまで生き延びるつもりは、勿論なかった。しかし、死んでも構わないと何度言っても縋っても、華狩は殺人者として生きると言って聞かなかった。
 華狩は平凡な高校生としての生活を諦めた。それは、母親である奏樹にとっては華狩が生きる事を諦めたように見えた。
 奏樹一人の為に。
 しかし、華狩は言う。
「もし、僕に母さんがいなくても…きっとこの生活を選んでいたよ。零里がいる限り」
 華狩には、一体どこまで見えているのだろうか。奏樹は返す言葉を見つけられずにただ立ち尽くしていた。
「零里がいなければ僕はきっと、今も高校生でいられた。母さんが僕にくれた自由を、無駄にせずにいられた。零里がいなければ良かったって思わないわけでもない。…だけど、どんなに嫌っても憎んでも、零里がいるんだ。僕の中には、零里がいるんだ。僕はこの体を、零里と分け合って生きてるんだよ。僕は、僕の一存で零里の体を奪ってしまうわけには行かないんだ」
 小さな鍋で湯が音を立てて沸いていた。しかし、華狩は火を止めることを忘れている。
「華狩、火を」
 止めないと、と言いかけた奏樹の言葉を、華狩が遮る。
「僕を人殺しにしてしまったと悔やむなら、零里の存在を認めてよ」
 震えた鋭い声。
「零里も母さんの息子なんだ。お願いだから、苦しそうに零里の名前を呼ばないで」
 華狩が零里に対して好感情を抱いていないのは奏樹も知っている。それでも華狩は、零里の願いを口にするのだ。
 リビングに沈黙が訪れた。
 無言のまま、火を止めて華狩は湯をカップに注ぐ。ティーバッグを一つ、緩慢な動作で落としてから振り向いた。
「…ごめん」
 小さく謝罪したのは、華狩だったのか。
 それとも。
 それすらも分からない。それすらも。


 夢の中で、久し振りに零里の声を聞いた。
「やあ」
 零里は、華狩が生まれたその瞬間から隣に立っていた。
「やあ、華狩」
 華狩と同じ顔をした子供はいつも傍にいて、華狩が考えている事の全てを知っていた。華狩は零里について知らないことも多かったが、零里は華狩の全てを知っていた。
「どうして僕の思ってることが全部分かるの?」
 一緒に積み木で遊びながら聞いたことがあった。あれは、小学校に入る年の事だったか。
 カールスルーエの小さな借家で、ドイツ語で尋ねていた記憶がある。
「だって、ぼくらは兄弟だもの」
 零里は当たり前のように言った。
「ぼくは奏樹の言いたいことも時々分かるよ」
「母さんの?」
「うん」
 零里は母を名前で呼んだ。華狩は幾度となくお母さんと呼べと言ったのだが、零里は決して彼女を母と認めようとはしなかった。
 どうしてお母さんを名前で呼ぶの、と聞くと決まって零里は笑うのだった。何を言ってるの、と言った表情で。
「ぼくは奏樹の子供じゃないよ」
 零里は賢く、穏やかで、誰からも好かれた。
 学校に通うようになってから間もなく、零里は華狩とは違うと華狩は理解した。華狩は友達と上手く話すことが出来なかったけれど、零里はすぐに友達が出来た。
 ただ単純な勉強となると華狩の方が出来たし、足も華狩の方が速かった。どこの家も兄弟でそれぞれが違うのは当たり前だ。これはそういうことなのだろう。そう納得して、華狩もそれなりに小学校を楽しんでいた。暫くはそれで上手くいっていたのだ。
 いつの頃からだっただろうか。
 どうも違う、と言い出したのは零里だった。
「何が違うの?」
「普通の兄弟は、ぼくたちみたいにずっと一緒にいないらしいんだ」
 華狩は零里の隣にいる。それが普通ではない、と零里は言い出した。
「でも分からない。ぼくと華狩は兄弟なのに」
 困ったように零里が呟くので、華狩は彼の疑問を解決してやろうと思った。違っても構わないと華狩は思っていたが、零里がしきりに『ぼくらは違う』というのが気になったのだった。
 分からないなら奏樹に聞けばいい。幼い華狩は単純にそう考えた。
「僕が聞いてくるよ」
 零里は奏樹と上手く話せない。だから華狩が聞きにいけばいい。
「きっと母さんならすぐに答えてくれるよ」
 隣にいてね。僕が上手く質問できるように、傍で教えてね。そう頼んで、手を繋いで部屋を出た。
 いつも隣にいた。
 今にして思う。
 どんなことがあっても、例え互いを憎むようになっても、離れてはいけなかったのだ。
「零里」
 霧の向こうに求める手を捜すような焦りと共に、華狩は目を覚ました。そこは、カールスルーエの家ではなかった。見慣れた自室の天井。アメリカの、ニューヨークの家だ。ぐるりと確かめるように見渡せば、サイドボードに残ったカップが目に入る。
 夜は疾うに明けていた。
 夢から覚める直前、自分の声が確かに弟の名を呼んだ事を華狩は覚えている。
「零里」
 何度呼んでも答えは返ってこない。
 起き上がって、部屋の扉を開ける。
「…あ」
 丁度こちらに歩み寄ってくる、人影があった。
「ドクター…」

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