第二章 覚醒
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 現在LIVEの職員寮に世話になっているとは言え、華狩の雇い主はあくまで政府である。本来ならばLIVEに通う必要は無いのだが、そうすると仕事をする以外はひどく日常が暇になってしまう。そこで華狩は情報管理室に企業研修目的のボランティアとして通っている。LIVEは本来ボランティアの受け入れをしていないのだが、輝の親戚であると偽って潜り込んだのだ。
 LIVEに来て間もない頃に、普段は何もすることが無いでしょうから、と輝がボランティアを薦めてくれた。家に居づらい華狩の心情を察してくれたものだろうか。
「あ、紅牙さん」
 輝がどこからか事情のありそうな双子を連れてきた翌日、昼ももうすぐという頃になって漸く華狩は輝の姿を見た。書類棚整理の手を一旦止めて、華狩は入り口の輝の前に立った。
「お早うございます」
 情報管理室の職員は誰もが華狩に優しく接してくれたが、輝の笑顔は誰のそれよりも華狩を安心させる。華狩の挨拶に、輝は悪戯めいた口ぶりで答える。
「こんにちはと挨拶してくれていいんですよ」
 朝の挨拶には大分遅い時間だ。重役出勤への嫌味ととられたかと、華狩は焦って首を振る。
「え? あの、別にそんな」
 面白そうに笑う輝の背後から、ひょいと栄羅が顔を出した。
「あら、紅牙さん! 華狩さんを苛めないでくださいな」
「あれ? 神村さんまで」
 滑らかな銀髪をさらりと揺らして、栄羅はにこりと笑う。華狩は栄羅の後ろ、廊下の壁に姉の体を押し付けるようにしてこちらの遣り取りを聞いている少年の姿にも気付いた。
「お仕事、そろそろ一段落する頃じゃございません?」
「え?」
「今、検査の分析待ちなんです。することも無いんでお茶でも飲もうかって」
 多忙を極める年末の情報管理室で、輝はさらりととんでもないことを言った。輝は肩書きこそ与えられていないものの、情報管理室の中でも大分多くの責任を担っている存在だ。その彼が「することも無い」とあっさり言ったので、華狩は思わず背後の彼の同僚の様子を窺ってしまった。
「大丈夫ですよ」
 輝が囁く。
「偶にはね」
「はあ…」
 確かに輝が一年中夜まで仕事をしているのを、彼の同僚も知らない筈はない。偶に彼が暇であったとしても、誰にも責められるものではないだろう。
(まあ、仕事休んでるのは輝さんの所為じゃないし…)
 輝が大丈夫だといっているのだから大丈夫なのだろうと華狩は素直に納得したが、栄羅は輝に関しては華狩より一枚上手だった。呆れた眼差しを容赦なく向けて、嘆息と共に形式だけは質問の形で言った。
「どうせ、午後には仕事に戻られるんでしょう? それで明日の朝までお仕事なさるんでしょう?」
 輝は華狩ほどに素直ではない栄羅の質問に、暫く困惑した後に大人しく頷いた。
「…はい」
「別に何も申し上げませんわ。紅牙さんの仕事依存は今に始まったことではありませんもの。私にはお体にお気をつけくださいと申し上げるのが精一杯ですし」
「すみません」
 華狩は新鮮な気持ちで二人の遣り取りを見ていた。輝が自らの仕事ぶりを栄羅に責められて大人しく謝っているところを初めて見た。
「知りませんわよ」
 栄羅は冷たく瞳を逸らして、華狩に見事という他はない完璧な微笑を向けてきた。輝への当て付けだと分かっているだけに、怖い。
「華狩さん、お仕事はすぐに抜けられますの?」
「え? あ、はい。今片付けてきますから、ちょっと待っててください」
「手伝いますよ」
 華狩の後を、恐らくは華狩と同じ理由で輝が付いて来た。栄羅は不機嫌そうに入り口に立っている。
 あまりにも彼女の微笑が恐ろしい。栄羅は人前で誰かを殴るような真似をしないだけの分別は身につけているが、そうと分かっていても何故か怖かった。
「…喧嘩でもしたんですか?」
 書類棚の前に二人並んで、華狩は濃金の髪の青年が困ったように笑っているのを見る。
「喧嘩とも少し違うんですけど…ちょっと、怪我しまして。心配をさせてしまって」
 言われれば確かに輝の右手には包帯が巻かれていて、どこか動きもぎこちない。
「?」
 だが、怪我をした事と栄羅の心配と不機嫌がどう繋がるのか華狩には分からない。首を傾げても輝はそれ以上の説明をしようとしなかった。
「…栄羅さんは」
 後は棚に収めるだけとなっていたファイルを順番に片付けながら、華狩はそっと栄羅の名を口に上らせた。この喧騒ならば聞きつける人間もいないだろう。
「輝さんの事になると、途端に怖くなりますね」
「そうなんですよね…」
 輝はやはり困ったような曖昧な笑みと共に頷いた。それが、単純に栄羅の怒りが怖いからだとはどうしても華狩には思えなかった。
 自分へ向かう好意に鈍いのは事実だが、華狩ですら気付いている栄羅の気持ちに全く気付かない輝ではないであろうし、それならば何故栄羅が怒っているかも分かっているのだろうし、理由の分かっている怒りを恐れる輝でもない筈だ。
 そう、きっと、だからこそ輝は戸惑っているのだ。栄羅がどうやら好意を持ってくれているらしい。その為に、輝の怪我を心配しているらしい。華狩には分からないが、だから栄羅は怒っている。
 ならば心配をかけたこの先、どうすればいいのか。恐らく輝にはそれが分かっていない。
 心配されると言う経験が極端に乏しい。それが輝なのだと、華狩はふと悟った。
(口先三寸で誤魔化すのなんて大得意なはずなのになぁ)
 ファイルを持った手が止まる。
 隣に立つ輝は、きっと困っている。返す言葉を見つけられずにいるのだ。誤魔化す事が得意な筈なのに。栄羅の事も、誤魔化してしまえばいいのだ。輝は大切な相手でも必要と思えば誤魔化すことを躊躇わない。柔らかく笑むけれど、輝の本質は決して優しいばかりではないのだ。
(…もしかして、輝さん)
 輝は、栄羅の事を。
「どうしたんですか?」
「あ、いえ」
 何だか的を射ているような気がして、却って的外れなような気分になる。華狩は首を横に振って自分の中にある疑問を誤魔化した。輝も栄羅に好かれているのは自覚している。それは華狩にも分かる。しかし、その好意が恋愛感情と名のつく好意であることに気付いているかどうかまでは分からないのだ。
 輝はまるで、彼に惹かれる者がこの世にはいないと信じているかのように見えることがある。
「さて」
 華狩の手が最後のファイルを棚に押し込めると、輝は一度小さく溜息をついてから言った。
「後ろを振り返るのがちょっと怖いんですけど、行きましょうか」
 僕は輝さんが思う程は怖くないですとは言えず、華狩は困惑気味に頷いた。


「…なんか…」
「うん、なんか」
 昼を少し前にして、既に喫茶室は込み合い始めている。珍しく自分から呟きを漏らしたリフに驚く余裕は無く、華狩も椅子の上で居心地悪く身じろぎをした。
「すいません」
 輝も珍しく笑みで誤魔化さずに謝罪を口にする。表情が変わらないのは栄羅とリアだけだ。
 よくもこれだけ露骨に視線が集中しているところで落ち着いていられるものだと、華狩は栄羅を見てそっと感心する。
「いえ、輝さんの所為じゃ…」
 ないですよ、とはっきり否定は出来ない。確かに喫茶室中の視線を集めている原因は輝なのだ。誰もが知っている情報管理室の多忙の極みにいる筈の男が、この年末の忙しい時期に仕事をしていない。この時期はどこの部署も忙しいことに変わりはないようで、集まる視線は当然好意的なものでは有り得ない。お前は遊んでいる場合なのかと問いかけてくる眼差しが、輝だけではなく華狩たちの全身に突き刺さるのだ。
「お前が悪いのか? これ」
「悪いって言うか…いや、本当の意味では悪くないと僕は思うんですけど」
 忙しい人間が偶に息抜きをして何が悪いのか。華狩が思うことを輝が思わない筈もなく、しかしそこで胸を張って開き直るにはかなりの勇気を要する状況。
「仕方ないですわね」
 栄羅はさらりと流す。
「?」
 いまいち状況を掴みきれず、眉根を寄せるリフに栄羅は華狩も予想外の説明をした。
「こんな派手な容姿の人が、目立たないでいられるわけがございませんもの。貴方もこの方といらっしゃるんでしたら、常にこれくらいの事は覚悟してらした方がよろしいですわ」
「…それ言わないでくださいよ、コンプレックスなんですから」
 栄羅は輝の抗議には耳を貸さず、コーヒーを飲む。
「見た目が派手で何で睨まれるんだよ」
 言外にそれ以外の理由を問うリフは、なかなか視線に敏感だ。輝もそれに感心している表情を目の端に覗かせる。
「後でご説明差し上げますわ。どうしたって穏やかな話じゃございませんもの」
「そんなに殺伐とした話でもない…ことは、ないですよね」
 栄羅の怒りも露わな眼差しに、輝は中途半端に反論を引っ込めた。そんな二人の遣り取りを視界に入れつつも、華狩は周囲の人間の眼差しの方が気になって仕方ない。
(どんな裏稼業の人に睨まれてるより怖いんだけど…)
 一体どれほどの忙しさなのか、輝を睨みつける目線には時折殺意めいたものも感じられる。これに栄羅も輝も気付かないわけがなく、それでもこの日常の遣り取りを交わせる度胸は凄まじいものだと華狩は感心する。実際に殺される程の事は起きないと分かっているからなのか。
「開き直りが重要なんですよ」
 華狩の疑問を呼んだように、輝は涼しい顔で言い放つ。
「開き直り…」
「まあ輝さんの開き直り方なんて見習うだけ無駄ですわよ、華狩さ…あら?」
 不意に、この奇妙な雰囲気に不似合いな矢鱈に明るいメロディが響いた。その中で携帯を取り出したのは、輝だった。
「あ、僕です」
「え」
 栄羅が低く声を出した。輝にはあまりにそぐわない可愛らしいメロディに何かを裏切られたような気持ちになったのは、華狩だけではないらしい。
「すみません」
 あの視線の中を躊躇いもせず横切って、輝は喫茶室の外に出ていった。
「何かトラブルかしら」
「さあ…」
 この時期に休憩中の輝をわざわざ呼び出すほどだから、きっと厄介ごとだろうと華狩にも想像はついた。
 手短に通話を終えて、輝はテーブルに戻ってくる。栄羅達の問いかける眼差しに、困ったように笑った。
「ANNEが何だかエラーを起こしたとか何とか、説明も要領を得なくて」
「トラブルですか?」
「そうみたいなんですけど。どういう事なのか分からないので確認しないと…。すみません、戻りますね」
「分かりましたわ。こちらは任せてくださいな」
 すみません、と再び謝って輝は慌しく情報管理室に戻っていった。
「輝さんも、忙しいですよね」
「そうですわね。まあ、仕方ありませんわよ。あんな複雑なプログラム一人で作ったりするから」
「!」
「やだ華狩さん、大丈夫ですか?」
 とんでもないことを聞いた気がして、華狩はコーヒーを吹き出しかける。
「ANNEって、ここのハッカー対策の?」
「そうですわ。あの底意地の悪さは輝さんじゃなきゃ出せませんわよ」
 ANNEは、LIVEで使用されている対ハッキング用プログラムだ。自動的に外部からの不正侵入を防ぎ、逆探知して攻撃する。防御性にも攻撃性にも優れている優秀なプログラムだが、唯一最大の欠点は作りが複雑なことだった。
(特にコンピューター関係が専門じゃない輝さんに扱えるのは何でかと思ってたけど…)
 輝だから扱えたのか。
「製作者以外に扱えないなんて、物凄い欠陥ですわよ。自動排除システムがあったって、ANNEが自分で排除しきれないケースだってありますもの」
「あの、それより…本当に、輝さんがあれを?」
「そうですわ。正確には完全に一人で作ったんじゃないらしいですけど。プログラミングとか、フランス語とか…今の輝さんの持ってる技術の殆どを教えてくださった先生がいらっしゃるそうなんです。その先生に教わりながら作っていたのが、先生が急に亡くなられて。それからは一人で作ったんですって」
「その先生も、何か凄いですね…」
「華狩さん、難しいものを難しくするのは簡単ですわよ。難しいものを簡単にしてこその才能ですわ」
「輝さん、何で直さないんですか?」
「さあ…。直さなくちゃって出会った頃から仰ってますけど」
「何でだろう。どっちにしても、大変ですよね。輝さんも…」
「そうですわねぇ。でも…あら」
 ぬるまったミルクティを飲み干して頷いた栄羅が、壁にかかった時計にふと目をやったところで言葉を途切れさせた。
「そろそろ結果出てますわ。私、取りに行ってきますわね」
「でも…僕行きましょうか」
 リフは栄羅以外の人間がリアの傍にいることを警戒する。華狩もこの場の突き刺さるような視線から逃れたいこともあり、立ち上がりかけた。
「待て」
 それを止めたのは、リフだった。
 華狩を止めたのか栄羅を止めたのか、その短い一言からは判断できずに二人は同時にリフに眼差しを向けた。
「俺達も行く」
「行くって…結果取って来るだけだよ。また戻ってくるし、何も皆で行かなくても」
「リアが」
 途切れたリフの言葉を補う為に華狩はリアの顔を見る。
 表情に変化はなかったが、リフの言いたいことは分かった。
 顔色が悪い。
「ちょっとここは辛かったのかしら」
「…大丈夫?」
 少し俯き気味のリアと目を合わせるため、華狩はリアの脇に膝をついた。肩に手を置くが、リア自身は勿論、リフからも拒否の声はなかった。
 リアの顔を覗き込めばその栗色の瞳はどこか淀んでいて、カップの並ぶテーブルを映し出している。大きく硝子球のように無機質な瞳は、映し出しているものの一つ一つが鮮明だ。
 口の付けられていないリアのカップ。
 隣で眉根を寄せているリフ。
 こちらを案じているであろう栄羅の顔までは見えない。彼女は立ち上がっているからだ。
 そして、リアの顔を覗き込む華狩。
「…?」
 ふと、華狩は違和感を覚えた。
 覚えのある違和感。
 リアの瞳に映っている世界が見える。
 そこには、リアがいない。
 リアの瞳を見つめているだけならば見える筈の、リアの顔が見えない。
「あ」
 拙い、と咄嗟に思ったがもう彼女から手が離せなかった。
 華狩さん、と栄羅の声が聞こえた気がした。その瞬間、リアが初めて瞳を動かした。
 華狩は、初めてリアの瞳を本当に真正面から見た。
『…て』
 知らない少女の声が、聞こえた。
 心臓が跳ねる。
(厭だ)
 本能が拒否をする。
『…もう………ら』
 リアが見えない。代わりに見えるのは怯えた表情の自分。指先には彼女の肩の体温があるのに、その触れた手の震えを肩に感じた。
 あの栗色の瞳も、自分の瞳と同じ色の世界を見ている。
 不意にそう思った。抵抗感と恐怖の中でそれを認めてしまえば、もう抗えなかった。
「もう、いい」
 華狩は自分の声を聞きながら、言葉と同じように口を動かす自分も見ていた。
「もう死んでいるから」
 リアの瞳を通して見るリフは、突如起こった異変に付いて行けずに戸惑いを明らかにしている。しかし、同じ視界の中でリフを振り返って見ているのは華狩だ。
「リフ、私はもう死んでいるから」
 もう、いいの。
 そう頭に響いた声は、しかし声となったリフに伝わることはなかった。
「華狩さん!」
 栄羅の悲鳴が聞こえる。リフが無言の内に華狩をリアから引き離したのだ。
 顔を強かに殴りつけられた。
「ふざけんな」
 低く怒鳴りつけられたからだろうか。殴られた頬の痛みだろうか。
 恐らくはそのどちらが原因でもなく、何故だか急に悲しくなった。涙が零れるのを頬に感じた。
「僕の…世界」
 呟きは、もう華狩だけのものだった。
 視界の端に映ったのは駆け寄ってくる輝と、椅子から栄羅の腕の中へ倒れこむリアと、リアへ腕を伸ばしたリフ。
「零里…」
 意識を失う寸前に浮かんだのは、ただ一つの名前。
第二章 -2-
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