第二章 覚醒
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 栄羅の部屋があるのは、輝の住んでいる棟の一つ隣である。連絡通路を使えば丁度十五分ほどで着く。三階の左端、神村と表札のかかっているのが栄羅の部屋だ。彼女は神村蘭という一般名を貰って生活している。
 インターホンを押すと、ドアの向こうからどたばたと騒がしい足音が聞こえて来た。何かが割れる音もする。
「? 神村さん?」
 首を傾げていると、突然勢い良く扉が開かれた。中から聞こえてきた騒音のわりに、彼女は髪一つ乱れていない。それとなく最近の流行りを取り入れた服も埃一つついておらず、一体何があったのか輝にも推し量ることが出来なかった。
「おはようございます」
 綺麗な微笑だ。
「おはようございます。あの…何か、割れたんじゃないですか?」
「ええ、花瓶をちょっと倒してしまいましたの。片付けましたから大丈夫ですわ」
 栄羅の背後に見える彼女の部屋は、確かに整然としている。短時間で割れた物を片付けるという芸当は、輝にはできそうもない。性別の違いか、性格の違いか。
「手、切ったりしてませんか」
「大丈夫ですわ」
 相変わらずの白い手を自分でも調べながら、栄羅は頷いた。
「よかった。じゃあ、行きましょう」
 栄羅の足に合わせて輝は歩き出した。
「昨日の子達、置いてきて大丈夫でしたの?」
 エレベーターに乗る頃、ふと栄羅に尋ねられた。当然それに音声認識プログラムは文句を言ったが、輝も栄羅もそれをまるで無視した。一階には着くのだ。問題は無い。
「大丈夫ですよ。リフにこれからお姉さんの検査をするとは言っておきましたし、僕の部屋から出てもLIVEから出られないでしょう。ややこしいから。朝食も置いておきましたから、多分それ食べてのんびりしてるんじゃないですか。結構疲れてるようでしたから」
「随分緊張してましたものね」
 音声ガイドが一階についた事を告げた。エレベーターが開いた途端、エントランスに満ちている冷たい空気が二人を包んだ。朝の匂いがする。
「今日も寒そうですわね」
 栄羅が言った。今夜辺り、また雪になるかも知れない。
「どうしましょうか」
 LIVEの門を抜けた所で、栄羅に尋ねられた。
「服を見たいんですけど、付き合ってもらえますか」
「あの子達のですわね?」
「…すいません」
 敏い栄羅の言葉に、思わず謝罪が口をついて出た。
「謝ることなんか何にもないですわ。どう考えたってあの子達には輝さんの服は大きすぎますもの」
 栄羅は細かい事にいつまでもこだわる性格では無い。だからこそ、輝は栄羅に悪いと思った。
「…ありがとう」
 分かっている。
 随分前から栄羅の優しさに甘えて不誠実を繰り返している事も、その度に重ねた嘘の効力が薄れてきている事も。
 分かっている。


「今日は走っている人が多いですわね」
 ミルクティのカップを口に運びながら、栄羅が呟いた。そう言われて見れば、と改めて輝は窓の外を見た。
 外装に違わず内装も上品なつくりの喫茶店は、栄羅と来損なった喫茶店である。シンプルながらどこかに可愛らしさも漂うその店を、栄羅は一目で気に入ってくれた。服選びにつき合わせてしまった礼に、と輝が誘ったのだ。
「マラソン大会でもあるのかしら」
 一般人が見れば常と変わらない朝の風景の筈だ。栄羅や輝が見るからこそ、そこにある異常にも気付く。走っていく人間の誰もがどこか似たような雰囲気を抱えている。そして、何かを探している。
「宝捜しって言った方が正確じゃないですか」
「かもしれませんわね」
 栄羅は笑った。彼女の前にはチョコレートケーキが半分ほど残されて置かれている。朝から良くケーキを食べる気になるものだと輝は感心したが、女性には甘い物は別腹であるという不文律を知らないわけでは無かったので黙っていた。
 そのケーキを口に運びながら、栄羅は窓の外を見ている。その瞳には、微かに警戒が見える。
「よくあることですよ、工場街の原因不明の爆発なんて」
 輝がそっと言った。栄羅がこれで納得するわけは無いと知ってはいたけれど。
「そう、ですわね」
 栄羅は歯切れ悪く頷いた。
 仕事の後で街がごたつくのは、よくあることだ。しかし、常のそれとはどうも質を異にする騒ぎのように輝の目にも映っていた。
 先日の仕事に関係はあるのだろうか。
(まさかとは思うけど…)
 輝の中には肯定要素にも否定要素にも欠けた考えが浮かんでいる。それを見透かしたかのように、栄羅が言った。
「まあ、今考えたって、仕方ないですわ」
 彼女の言葉は正しい。判断材料のない中で考えても仕方ない。
「輝さん、もう少し時間ありますわよね?」
「どうしたんですか?」
「腕時計が見たいんですの。付き合ってくださいな」
 栄羅の切り替えの早さには、いつも驚く。彼女のようになりたいと輝は思う。
「分かりました」
 輝が会計を済ませているうちに、栄羅は外に出ていた。考えても仕方ないといいつつ、やはり彼女がさり気無く周囲を気にして居たのを輝は見逃さなかったが、何も言わなかった。
 今ここで仕事の話をする無粋もないだろう。
「欲しい腕時計って、どこのですか?」
 輝の問いに、栄羅は煌かんばかりの微笑を見せた。
「いつもの所ですわ」
「…ああ、いつもの」
 顔に似合わず、栄羅にはアーミー系の小物を集めるという趣味がある。一体何処から仕入れた情報なのか、栄羅に頼まれて、外部に流れる筈のない小物を輝が仕入れさせられた事も一度や二度では無い。栄羅の行きつけの軍流出品を扱う店がこの近くにある事も、輝は知っていた。
「行きましょ」
 栄羅は足取りも軽く歩き出した。
 歩道脇によけてまとめられている雪は、溶ける気配がない。今年の冬は特に寒いようだった。栄羅は寒さに赤くなった頬を茶色のミトンをはめた手で暖めながら呟く。
「早く春にならないかしら」
「冬は嫌いですか?」
「嫌いですわね」
 輝と栄羅の脇を、固めた雪玉を両手に持った子供たちが駆けて行く。
「どうして?」
「寒いんですもの」
 栄羅の答えはいつも単純にして明快だ。輝はそれが妙に嬉しくて、微笑した。
 そんな会話を続けているうちに、やがて栄羅の目指す店が見えて来た。特に大きな看板を掲げてはいない。一見して何の店かも分からない。前に輝がどうやってこの店を見つけたのかと尋ねたら、彼女は見れば分かると答えた。
 どの辺りを見れば分かるのか、そこからして輝には分からない。
 古ぼけた木製のドアを開けると、輝も見慣れてしまった風景が飛び込んできた。木製の、どう歩いてもどかどかとした大きな足音になる床。軍服やずらりと壁に架けられている様々なモデルガンなどには今更驚きもしない。現在はこの国でも銃刀法が確立されているので、これらは全て精巧に作られた偽物だ。
 しかし、栄羅は他の者には目もくれずに、真っ直ぐ店内中央のガラスケースに向かって行った。彼女の興味の対象は、あくまでも小物だ。
「これ、珍しいんですか?」
 真剣にケースの中の時計の一つを睨みつけている栄羅に、そっと輝は尋ねた。
「アンティークですわ」
「へぇ…」
 軍流出品にもアンティークがあるのか、と輝は感心する。
 栄羅が見つめている時計は、彼女の細い手首には重過ぎるのでは無いかと思うほどにごつごつとしている。しかし、そういうものほど何故か栄羅には似合うことを輝は知っていた。
「栄羅さん」
「はい?」
「今度、お茶三回くらい奢ってくださいね」
「は?」
 輝は栄羅の答えを待たずにカウンターへ向かい、店員に時計が欲しいと告げた。
「ちょ、輝さん、私別にそんなつもり」
「知ってます。でも、クリスマスプレゼントまだあげてなかったでしょう?」
 栄羅には家族が無い。華狩とプレゼントの遣り取りをしているのは輝も見たが、それ以外に遣り取りの相手はいない。
 それは、輝自身もまた同様だった。
「はい」
 支払いを済ませた時計を、輝は栄羅の掌に置いた。栄羅はいきなり自分の物になってしまった時計に、戸惑いを隠しきれない。
「…珍しいですわね、こんなに強引に」
 輝も自分らしくない行動だと思っていた。栄羅の戸惑いは当然だ。
「すみません、お礼は分かりやすくお願いします」
 輝は冗談めかした一言と共に笑みを見せた。栄羅は釈然としないながらも、何とかそれに笑みを返してくれた。
「…ありがとう、ございます」
「どういたしまして」
 栄羅はこの行動をどう解釈したのだろうか。気紛れとでも思っただろうか。そうであればいい。輝は栄羅を促して店を出ようとした。
「待ってくださいな」
 栄羅は早速腕時計をしようとしている。バンドが緩い為に手首で回る時計をカーディガンの上から締める事で何とか解決して、栄羅は小走りに入り口の傍に立つ輝の元へ駆け寄ろうとした。
「あっ」
 先刻から店の隅に置かれているアクセサリーを物色していた男性が、指輪を落とした。輝も栄羅も一瞬その客に目を向ける。
 次の瞬間、輝は突然店に入ってきた男に肩を強くぶつけられて転んでいた。
「輝さん」
 栄羅の抑えた声が、それでも店内に響いた。
 男は謝ろうともせずに店内に入ってくる。
「びっくりした…」
 輝は特に怒った様子も無く、のんびりと立ち上がった。その右掌に気付いたのは、栄羅が先だった。
「輝さん、手!」
 床板を打ちつけていた古い釘に引っ掛けたようで、輝の手には深い切り傷があった。途端に滲み出す血が溢れて落ちるより先に、輝は服の袖で傷を抑えた。
「大丈夫ですよ」
 駆け寄る栄羅に、輝は笑顔を見せる。大した怪我ではない。だが、彼女は珍しく怒りを露にその秀麗な眉を吊り上げた。
 大股に店を再び横切り、無言で男の前に立つ。自分よりはるかに小柄な女性に進路を妨害されて、男は煩わしげに言った。
「何だ」
「何だじゃないですわ」
 低く短く栄羅は返す。
「貴方、人を突き飛ばして怪我させないとお買い物もできませんの?」
「退けよ」
「邪魔なら突き飛ばせばいかが? 貴方があの人に一言謝って下さったら、退きますわ」
「怪我したいのか?」
「栄羅さん!」
 輝の制止にも聞く耳を持たない。
「させてごらんなさいと申上げてるんですわ。貴方には小さな怪我かも知れませんけれど、世の中には小さな怪我でも命取りになる人間がいますのよ」
「退けよ!」
 乱暴に栄羅の方を突き飛ばそうとした男の右手を、栄羅はあっという間に後ろにひねり上げた。それは一瞬の出来事だった。
「怪我なさりたいですか? それとも謝ってくださいますか?」
 尋ねながら更に捻りあげる。それだけで男は簡単に悲鳴を上げた。
「わ、悪かった!」
「ちょっと腕が折れそうになった位で謝るんでしたら、最初からあんな真似なさらない事ね。無様ですわよ」
 吐き捨てるように言って入り口に立っていた輝の腕を掴むと、栄羅は早足で店を出た。
「栄羅さん、大丈夫ですって」
 輝の声に帰ってきたのは、掌をきつく押さえるハンカチだった。
「っ!」
 栄羅が傷を強く押さえた痛みに、輝の手がぴくりと震える。輝の手から服の入った袋すら奪い取って、彼女は早口に言った。
「早く帰りましょう」
「そんなに慌てなくても、大丈夫ですから」
「慌てますわよ!」
 栄羅の声は、既に涙声だった。白いハンカチは、もう輝の血液で紅く染まり始めている。傷の深さを考えれば、奇妙なほどに出血が酷い。
「C-Nの」
 栄羅は思わずその名を口にしていた。
「栄羅さん」
 輝に言われて、栄羅ははっと息を呑む。
「…私は」
 暫く言葉を捜してから、栄羅は輝に呟きを叩きつけた。
「私は、『枷』を恐れているんですわ。それをご存知でいらっしゃるのに、私の前で大丈夫だなんて仰らないで」
 枷、と栄羅は言った。その表現ほど輝や栄羅が抱えるものを表すのに最適なものもないと、早足で歩かされながら輝も思った。
 栄羅や華狩のような軍人でもなければ二十歳にもならない子供が、反政府組織の人間を殺す。そこには当然理由がある。全身にはめられた、見えない枷だ。
 栄羅は他人の体にはめられた枷を恐れている。
 華狩にはめられた枷、輝にはめられた枷。
 輝の手を引きながら半歩先を強引に歩く彼女が、泣いていないことを輝は願っていた。


「この程度の怪我なら、出血で死ぬ前に寿命で死んでいる」
 出勤した途端に涙目の栄羅と困り果てた輝の為に診療室へ引っ張り出されたレイアンは、不機嫌も露にそう診断を下した。
「他人を心配するなとまでは言わないが」
 薬品棚から幾つかの薬品を取り出しながら、美貌の医師は銀髪の少女に言う。
「お前はもう少し冷静になった方がいい。流石にその性格が命取りになるかも知れないことを分からない程馬鹿じゃないだろう」
「ドクター」
 制止の声を発したのは輝だ。栄羅は椅子に座った輝の右で、必死に涙を堪えていた。
 栄羅は本当に、他人の怪我に弱い。
「輝さん、鍵を下さればあの子達連れてきますわ」
 普段の彼女からは想像もつかない程低く掠れた声。
「…じゃあ、お願いします」
 無事な左手で右のポケットから鍵を出すのには苦労したが、輝は栄羅の掌に鍵を置いてやった。
「いいえ。それじゃ、また後で」
「栄羅さん」
 足早に診療室を出て行こうとする栄羅を、衝動的に呼び止めていた。振り返ることなく、銀髪の少女は足だけを止めた。小さな背中に声をかける。
「心配かけてすみません。ありがとう」
 返事は無いまま、栄羅は診療室を出て行った。彼女の自尊心が、それをさせなかったのだろう。
 声を出せば涙が零れてしまう。
「…全く」
 ドアが閉まったところで、輝は苦笑を漏らす。
「貴方はもう少し女性に優しくするということを覚えたほうがいいですよ。流石にその性格が怖がられる原因になってることを分からない程馬鹿じゃないでしょう?」
 輝の言葉に、レイアンは多少眉根を寄せただけだった。
「分かりにくいんですよ。貴方の言葉は。心配しているのに、叱り付けてるみたいに聞こえる」
「分析を頼んだ覚えは無い」
「分析なんかしてませんよ。僕が知ってる事実を確認してるだけです」
「…随分不機嫌だな」
「原因を探りますか?」
「俺は外科医だ。心理分析は専門外だな」
 言葉を返しながらも、レイアンの手が止まる事はない。相変わらず惚れ惚れするほどの手早い処置だ。
 血は今も止まってはいない。だが、レイアンが素手で止血剤を塗る、その気軽さから輝が察するに、大した怪我ではないという彼の診断は栄羅への方便ではないのだろう。
「お前の特記事項を栄羅は知らないのか」
 包帯を巻きながら、レイアンが尋ねた。
「ええ。何だか言いそびれてしまって」
「お前は本当に優しくするということがどういうことなのか、覚えたほうがいい」
「承知してます」
 絶対に相手に言わせたままにしておかない、この青年の奇妙な強情さは栄羅と似ていると輝は密かに思っている。栄羅とレイアンの持つ性質はまるで正反対だが、正反対だからこそ見えてくる類似点もあるのだろう。
「これでいい。一週間もすれば治る」
「何だか、少し大げさですね」
 何故か指にまで巻かれた包帯を眺めて、輝は呟く。
「それくらい露骨にしておけば栄羅も安心するだろう」
 レイアンの言葉は、配慮のように聞こえはする。だからこそ、輝は困って曖昧に笑う以外に出来なかった。
「邪推しないでください」
「俺は別にお前が誰とどうなろうと気にしない」
「それが邪推だって言うんですよ」
「輝、誤解するな」
 漆黒の瞳が、今日初めて輝に真っ直ぐ向けられた。
「お前の人生にも幸福にも不幸にも興味は無い。だから邪推も何もしない」
 どこか苛立ちを感じさせる眼差しに、輝は多少戸惑いながらにこりと微笑を返す。あまりにもレイアンの嘘が下手なのは、恐らくは彼が故意にそうしているのだろう。
「……」
 言葉の裏、彼の嘘の陰にある本意まで読み取る為に、輝は暫しの時間を要した。そして、どうも彼があることを心配しているようだと思い至った。
「ドクター、僕は変わりませんよ。これまでも、これからもね」
 レイアンは答えなかった。だが、否定もしなかった。輝の予想はそう外れたものでもないのだろう。


 例えば眼前で人が転べば、大抵の人間が驚きもするし心配もするだろう。
 当たり前のことをしただけでどうしてこうも落ち込まなければならないのか、栄羅には分からなかった。ただ、診療室から輝の部屋へ戻る道を、彼女はとても悲しい気持ちで歩いていた。
 自分の怪我より他人の怪我の方が見ていて不安なのは、そんなに特殊なことだろうか。
 生憎と栄羅にはレイアンのように冷静になれるだけの医学の知識もなければ、輝の様に全てを受け入れて落ち着いて対処が出来るだけの経験も無かった。
 あまりくよくよと悩む事をしない栄羅ではあったが、今回は流石に足取りが重かった。
(だって、そんなの当たり前だわ)
 栄羅はのろのろと廊下を歩きながら思う。
 目の前で仲間が血を流した。例えばそれが栄羅と同じ仕事に就いている者でなければ、栄羅もあそこまで取り乱したりはしない。
 栄羅にも理由があり、それをレイアンは承知している。けれど、それでも彼は冷静さを栄羅に求めるのだ。
 輝も輝だ。アメリカに来てから、栄羅と一番時を多く共にしているのは輝だ。職業のわりに警戒心が薄い栄羅は、輝が決して優しいだけの男ではないことを知りながらも、それでも彼に自分の弱さを幾らか見せている。栄羅が何故輝の怪我に動揺したのか、考えるまでも無く分かるはずだ。そして人の心を読むことに長けた彼が、栄羅の望む答えを知らないわけが無かった。
「…馬鹿」
 レイアンと、輝と、そして誰よりも自分に向けて、栄羅は呟いた。
 もう少し弱さというものを認めてほしい。
 もう少しこちらの弱さを承知しておいてほしい。
 だが、そんな風に知らず考えている自分を、栄羅は一番嫌っていた。何かを他人の所為にしてしまうのは、自分に自尊心の欠けた証拠であるように思えた。
 強くなりたいと思う。何も人の所為にすることの無い、そんな強さを持ちたい。
 反面、栄羅は輝の怪我を見て動揺する自分の弱さは好きだった。
 矛盾は、十七の少女が一人で背負うには少しばかり重い。


 リアとリフを連れて戻ってきた栄羅が全くいつも通りの明るい彼女に戻っていたので、輝は少々驚いた。二人を連れてくるには少し時間がかかりすぎていたが、それを差し引いても十分に驚くに値する切り替えの早さだ。
 少し無理をしているのかもしれない。だが、彼女の努力をふいにしてしまう事も無いだろうと輝は先刻の事について話すのを避けた。
「少し遅れてしまいましたわね、ごめんなさい」
 栄羅は輝に綺麗な微笑を向ける。
「手当て、終わりましたの?」
「ええ。もう大丈夫です」
「良かった」
 実際輝の右手は包帯で巻かれているし、そこに血が滲んでいる事も無い。それを栄羅に見せると、彼女は明らかにほっとした顔を見せた。
「利き手でなくて助かりました」
 輝は苦笑交じりに言った。大抵の物事を器用にこなす輝だが、これは謙遜ではない。彼は右手での作業が恐ろしく苦手だった。字を書いたり鋏を使ったりは勿論、マウスを扱うのにすらひどく苦労する。これが左手に負っていた怪我であったなら輝の日常生活は不便を極めただろう。
 栄羅は少しだけ声を上げて笑った。
「おい」
 その柔らかい笑い声を押さえつけるように診療室に響いたのは、少年の鋭い声だった。栗色の瞳がじっと睨み付けている。
 輝でも栄羅でもなく、採血の準備をしているレイアンを。
「ああ、すみません」
 しかし、リフの声に答えたのは輝だった。栄羅がリアの手を取る。
「こちらですわ」
 リアは抵抗する様子も見せず、栄羅に導かれるまま昨晩も座った診療室の椅子に腰掛ける。リフが彼女の傍らに立った。後ろ手に閉めたドアを背に立つ栄羅の右隣に、輝が立った。
「よく、リアを触らせましたね」
 輝は栄羅に囁いた。昨夜から彼は輝にリアを触らせる隙など一切作らなかったというのに、栄羅にはあっさりと触れるのを許した。輝の囁きに栄羅は眉根を寄せて答えた。
「私が女で、何かあったときには殺せそうに見えるからですって」
 栄羅が大きく溜息をつく、その気持ちは輝にも理解できた。
「それはまた、随分と偏った…」
「ねえ?」
 栄羅のリフの背を見つめる目には、少なからず侮蔑の色が混じっている。
「女の敵ですわ」
「まあ、子供の言ったことですから。そんなに怒らないで」
「…お前、何者だ?」
 輝があまり良い出来とは言えない慰めを栄羅にかけると殆ど同時に、それまで無言を通していたレイアンが不意に呟いた。採血の為にリアのブラウスの左袖を捲り上げた、その途端の呟きだった。
 漆黒の眼差しはリフに向けられる。
「……」
 リフは答えない。
「どうかしたんですか?」
「見れば分かる」
 リアの腕を覗き込んだ輝は、顔を顰めた。
「成る程」
 短い呟き。
 リアの左腕は、年頃の少女のそれとは思えないほどに細く、青白かった。そしてそこに残る、注射痕。決して少なくは無い数のそれは、明らかに治療目的の注射ではない。
「痕、消えます?」
 栄羅が少女らしい問いを口にした。
「多少は残るかもしれない」
 それを聞いた栄羅はそっとリアの腕を取って、傷跡に掌を当てた。温めてどうなるものでもないとは、レイアンも言わなかった。栄羅自身そんなことは百も承知だ。
「これ、治療のための注射ではないですよね?」
 輝が尋ねても、リフは答えようとしなかった。黙り込んだままのリフを見て、口を開いたのはレイアンだった。
「黙っていても構わないが、情報が少なければそれ相応の扱いとフォローしかできないことを覚えておけ」
 辛辣な言葉に、リフはびくりと肩を竦ませる。
「…それでも、構わない」
 奇妙な程の頑固さで、少年は首を振る。
「泣くのが、貴方だけではなかったとしてもですか?」
「だって」
 泣きそうな声で、リフは悲鳴のように声を上げた。だが、結局その後に続く言葉を言えずに目を伏せてしまう。
 輝はレイアンと顔を見合わせる。レイアンの瞳が今は無駄だと言っている。輝は頷いて、唇だけを動かして『僕が』と告げた。レイアンもそれに頷く。
 調査ならば輝の仕事の範疇だ。
 リアの右腕には注射痕は見られない。右腕から血液を採取して、リアの採血は終わる。
「次はお前だ。…両腕を見せろ」
 レイアンの言葉に否は無かった。のろのろとした動作でリフは両腕の袖を捲って、腕を見せる。リフの腕に注射痕は無かった。細さも白さもいっそ病的なほどではあったが、それだけだった。
 二人分の採血を済ませると、レイアンは立ち上がった。
「激しい運動は避けておけ」
 医者としての忠告を一言残して、長身の青年は診療室を出て行った。分析の終わる時間すら告げなかった。
「本当に形式って物が嫌いですわよね、ドクター」
 栄羅は吐き捨てるように言う。
「形式?」
「どうせ輝さんは分析の終わる時間が分かってらっしゃるんでしょう? 嫌味ですわ」
 一体誰の何が嫌味なんですか、とは輝は尋ねなかった。
 貴方方お二人の一から十まで通じ合ってる友情がです、と答えられるのは目に見えていたからだった。悪いことに栄羅が心底そう誤解している事も、輝は良く知っていたのだった。

第二章 -3-
第二章
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