-1- 誰かの叫び声を聞いたような気がして、リフは飛び起きた。 「……あ」 汗をかいていた。酸素が足りない。苦しげに深呼吸を二、三度繰り返して、リフは辺りを見回した。 「……リア」 そこは冷たい道路の上などではなかった。薄暗い小屋。幾つかの木箱と掃除用具以外の物は何一つ置かれていない中で、リアはその木箱の一つに足を抱えて座っていた。 その状況を確認して、やっとリフは聞こえた叫び声が夢を見ていたらしい自分のものであったことに気付く。 けれど、夢がなんであったかは思い出せない。 覚えているのははっきりとした現実、父に銃口を向けられた現実だけだ。 「リア、助けてくれたの?」 俄かには信じ難い事実を確認する問いにも、答えは無い。リアはただリフを見つめている。半年前までは、何とか瞳で意思の疎通をすることが出来た。 しかし、もうそれもできない。 「リアだよね、俺を助けてくれたの。ごめん、俺がリアを守らなきゃいけなかったのに」 あの場でリフを助けられたのはリアだけだ。きっと奇跡が起きたのだと無理矢理に納得して、リフは立ち上がった。 「どこだ、ここ?」 ドアノブらしきものを見つけてひねってみると、案の定それは外へと続くドアだった。外を覗くと、右手には小さな十字架のついた建物、正面には墓地が見えた。 (…教会?) 雪を踏みつけて、墓地の方へ行ってみる。僅かな敷地に、あまり大きくは無い墓がぽつぽつと並んでいた。 (なんだろう) 奥の墓に黄色い花が置かれているのが見えた。位置的には一番遠い場所に有る物の、距離的にはそう遠くも無い。 近づいてみると、それは真冬に見るにはあまりに不似合いな花だった。 「向日葵…」 思わず呟けば息が白い。こんな寒さの中、向日葵が咲くわけがないのに。温室栽培の花ならばこの季節に向日葵を入手する事もきっと不可能では無いのだろうけれど、どうもこの向日葵は温室で育てられた花とは違うように見えた。 まっすぐに太陽を浴びて風に揺れながら育ったような、そんな強さがある。 墓石に刻まれていた名前は、リフには読み取る事はできなかった。読み書きをあまり習っていない上に、その名前は飾り文字で書かれていたためである。 「変なの」 リフは、感じた違和感を表すに相応しい言葉を知らなかった。仕方なしにそれだけ短く呟いて、彼は小屋へ戻った。 相変わらず、リアは膝を抱えて座っている。 「どうやって俺をここに連れてきたの?」 そんな問いを思わず口にせずに入られなかった自分に、リフは苦笑した。 答えがあるわけがない。 「これからどうしようか」 リアの隣に腰掛けて、リフは溜息をついた。ここが何処なのかも分からない。リアの顔を見れば、あの無理な逃走が祟ったのか顔色が悪い。 もう一度見つかって助かる自信もない。 そこまで考えて、リフは先刻最後に見た金髪の少年を思い出した。父親に殺されるのだと分かった時に記憶の逆流。それに乗ってリフの目の前に現れた少年。 「誰だったんだろう…」 会った覚えもない。リフもリアも栗色の髪と瞳の持ち主で、金髪の少年は周囲にもいなかった。 「…まあ、分からないこと考えても仕方ないよな」 分かる時が来れば分かるだろう。今考えなければならないのは、それではないのだ。 再びリフはリアを見やった。 「リア、今日はここで眠ろうか?」 その時だった。 控えめなノックが、小屋の中に響き渡った。 真っ赤な薔薇の花束など、抱えて歩くのは嫌だった。自分がどちらかといえば女性的な顔立ちで、悪い事に薔薇のような派手な花が似合ってしまうことを輝は知っている。 (…かすみ草が妥当かな) 花屋の店頭にいることすら、輝にとっては重荷だ。人の視線が背中に突き刺さってくるようで、無意識に背中を丸めてしまう。人に見られていると気付いた途端に胃が痛くなっていた時期もあったのだ。普段から人の気配に敏感でいようと努めた結果なのだが、これは職業病に入るのだろうかと輝は考える事がある。 「どちらになさいますか?」 教育の行き届いた態度で店員が声をかけてくる。 「え? ああ、かすみ草お願いします」 「他はよろしいですか?」 「ええ」 「ラッピングいたしますか?」 店員との一連の遣り取りなど、買いに来る前から十分に想像できる。それにもかかわらず、どうしようか、と毎年輝はここで悩む。花が綺麗ならばラッピングなどどうでもいいと言われたことがある。輝にとってこの花は特別な意味を持つ花であった。しかしこの花は、そう言った本人へ贈る花でもあった。 「いいです、普通に包んでもらえれば」 結局今年も輝はラッピングを断わった。手際よく花を新聞紙で包んでこちらに渡す店員の掌に代金を置いて、輝は店を出た。 革靴の踵が立てる心地良い音を聞きながら、輝はゆっくりと歩いていく。ニューヨークにも、確かに人の心というものは息づいている。それを歩きながら感じるのが好きだった。 十五分ほども歩くと、やがて小ぶりながらもよく磨かれた十字架が見えて来た。珍しいほど小規模な教会。 石畳の狭い通路の先には、古ぼけた木戸が見える。その木戸を開けると、墓地がそこに広がっていた。 似たような墓がぽつぽつと並ぶその中を、輝は一番奥へ歩いていった。目指す先に黄色い花束を見つけて、微笑する。 向日葵の隣へ花束を置いて、輝は石の前で祈りを捧げた。 「すいません、また遅刻しましたね」 石に刻まれた名の持ち主は今、この石の下に眠っている。 「それと、今年もまたかすみ草にしちゃって。…包装が毎年新聞紙なのは、貴方がそれでいいって言ったからですけど」 付け加えた言葉が、どこか悪戯な印象を含んでいる。風が吹いて、忙しくてなかなか切りに行く事のできないでいる濃金の髪がさらさらと音を立てて揺れた。 「…それじゃ、また」 どこか歯切れの悪い別れの言葉とは裏腹に、名残を惜しむ様子もなく輝は墓へ背を向けた。 再びゆっくりとした足取りで歩き出した輝の靴が、しかしふと止まった。雪の水分を含み幾分柔らかくなった土の上に、何かがあった。地面から目を離さずに、輝は体を百八十度回転させて後ろを見る。 輝のそれよりも小さな足跡があった。 (…ドクター…のわけは無いし) 今しがた輝が祈りを捧げたその墓の前で、足跡は途切れている。そこだけを見ればレイアン以外には考えられないのだが、彼の身長を考えるとあまりにその足跡は小さすぎた。 再び視線を戻して、輝はその足跡の続く先を見た。 輝の入ってきた木戸へ、そして、その向こうへ。 石畳を少し歩いて、脇にそれている。目でそれを追って、輝は顔を上げた。すると、小さな崩れかけた小屋に気付いた。 (管理人かな) 昨夜も雪が降った。雪かきのために墓地を訪れ、小屋に道具を片付けたとしてもおかしくは無い。 しかしその説明に納得できない何かを感じて、輝は小屋の前に立った。 「………」 明らかな人の気配。緊張する必要がまったくない場面でも緊張している自分に呆れながら、輝はドアをノックした。 「誰か、いらっしゃるんですか?」 がさ、と中で何かが動いた。はっきりとした気配が一つ、そしてかなり希薄ながら気配がもう一つ。 「あの」 出来るだけ穏やかな口調で輝は語りかける。 「僕は、あの向日葵が置いてあった墓の人の関係者なんですけど。さっき、そこまでいらしたでしょう? 足跡が残ってたんです」 小屋の中から返って来る声は無い。教会の関係者では無い事は確かだ。 残る答えとしては侵入者、唯一つだ。家を無くした者が逃げ込んだか。未成年が溜まり場にしているか。それとも犯罪者が隠れているのだろうか。 盗んで得になるようなものは無いはずだが、何しろこの小屋は目立たない。隠れ家に向いているのは確かなのだ。 「別に、怪しい者じゃないんです。ただ、あの墓を人が訪ねて来るのは珍しいので、少し気になって。勿論教会の人に言おうとか、そういうんじゃないんです」 やはり、返事は無い。 ドアに向かって一人喋る男という構図が世間一般にとって珍しいものである事は輝も知っている。だが、仮に危険な人間が隠れていたとしたら教会の人間に相手をさせるのも気が引けたし、何よりこのまま帰るにはあまりに気になったので、輝は諦めずに再び口を開いた。 「あの、もしかしてここに止まるおつもりですか? それはよした方がいいと思いますよ」 「何で」 漸く、つっけんどんな答えが返ってきた。声だけで判断するなら、相手は華狩と然程変わらない歳に思える。 「今夜も多分冷えますし」 「コートは着てる」 ぶっきらぼうながらも律儀に答えてくる声に、輝は苦笑を禁じえなかった。無視を続けていれば輝も帰ったかもしれないのだ。 「でも」 「黙れ」 そんな感情を押し隠して更に言い募ると、突然扉が開いて小柄な少年が一人現れた。 少年は、当然のように隙の無い動きで鈍く光る銃口を輝へ向けた。滑らかな手の動きが、それだけで輝へ少年の銃の腕前を知らせる。 おやおやと口中で呟いて、輝はすばやく銃を見て取った。年代物の様だが手入れはよく施されている。銃の知識をひけらかす趣味はないので、感心するのは表情だけに留めておいた。 「何笑ってやがる」 「ここで慌てたり怯えたりしても、貴方はその銃を逸らしたりしないでしょう? 無駄な事はしない主義なんです」 少年は、華狩よりも僅かに年下であるように思えた。しかし、華狩には無い鋭さが栗色の双眸にはあった。同じ様な瞳を、輝は昔見たことがある。 「ところで」 輝は手をあげる事もせずに話を続ける。 「僕は貴方に銃を突きつけられているけれど、貴方は何を僕に要求しているんですか?」 「…命の安全が確実に保障される寝床と、医者が欲しい」 家を失ったらしい未成年の犯罪者。輝の予想はある意味で全て当たっていたが、それでも彼は警察に少年を引き渡す気にはなれなかった。少年の容姿は同じ年頃の華狩を思い出させたし、瞳の鋭さも別の少年を思い出させたからである。 「それならすぐに用意できます。案内しましょうか?」 少年が頷くのを見て、輝は息を吐いた。説得の為の会話術など学んだこともない。やはり多少は緊張するものだ。 「なら、こっちに来い」 少年が銃を下ろそうとしないのは賢明な判断だ。言われるままに輝は小屋に足を踏み入れ、そこで一人で木箱に座る少女を見つけた。 「俺の姉だ。何があっても俺たちが離れる事の無い部屋を用意しろ」 虚ろな瞳が、こちらを見上げている。嫌な事に、このような瞳も輝には見覚えがあった。 一番思い出したくないことを思い出させる。 「用意できるな?」 銃口がこめかみに押し当てられた。 「…ええ」 「なんっで、一般人連れてきましたの!」 ばん、と勢いよく机が叩かれた。その上で湯気を立てていたコーヒーカップが三つ揃って大きく揺れたので、慌てて華狩がそれを押さえた。 華狩にはこれから目の前で広がるであろう光景が容易に想像できた。当然である。午前と全く同じ条件が揃っているのだ。 レイアン=レーンの勤務場所である研究室。 揃った顔ぶれは華狩とレイアンと栄羅と輝、唯一の違いは一般人が二人、部屋の隅に座っている事だけだ。 情報管理室の使いでつい三分ほど前にこちらに来たばかりの華狩には状況が全く飲み込めていないのだが、輝が一般人を二名LIVEへ連れてきた事だけは分かった。 「机を叩くのは一向に構わないが、書類をコーヒーで汚すな」 レイアンが栄羅の神経を更に逆なでするが、彼女の怒りは原因が何であれ今は輝に矛先が向かう。 「輝さんがそこまで考えなしだとは思いませんでしたわ」 輝は相変わらず、いっそ見事なほどに落ち着き払っている。 「でも、子供二人にばれる情報なんてとっくに世界中にばれてますよ」 「……」 あまりに単純で、しかも穏やかな輝の一言に、栄羅は返す言葉も無く黙り込んでしまった。 「今夜は僕の部屋に泊まらせますから。僕も二人の面倒を見るために夜ちゃんと家に帰るんだし、問題ないでしょう?」 「……」 「それで、ドクター」 話を打ち切られた事に、栄羅が眉根を寄せた。しかし華狩に袖を引かれ、仕方なしに文句を飲み込む。 「彼の要求にお姉さんの診察もあるんですけど、頼めますか?」 「ああ。どうせ二人とも診察しろと言うんだろう」 「察していただけてありがたいです。お願いしますね」 レイアンはゆっくりと立ち上がった。 「こっちだ」 レイアンの長身が研究室を横切るのを、彼の同僚達はどこか恐れているように見ている。この研究室の中で彼は最年少で、長身といえども研究室で彼以上に長身の者もいる。 「なんでだろう」 華狩は呟いた。それを聞きつけたのは、輝だった。 「何がですか?」 「ドクター、怖がられてませんか?」 「ああ、そうでしょうね」 輝はあっさり頷く。その瞳に、悪戯な光が浮かんでいた。 「怖いほどの美人ですから」 「美人…」 否定は出来ないけれど頷くには躊躇わせるものがある輝の一言に、華狩は首を傾げた。 「もっとも、それだけが理由じゃないですけどね」 「?」 「ここじゃ言えませんけど」 「どういう意味…ああ」 純粋に、この中で一番『頭がいい』のはレイアンだ。患者を連れて研究室を出たところで、栄羅が口を開く。 「やっぱりあの歳で医師免許持ってるのは伊達じゃありませんわよ、華狩さん」 名指しされた華狩は困惑し、輝は苦笑した。 「…努力家なんですね」 搾り出した華狩の感想に答えたのは、輝だ。 「まあ、色々無きゃ齢十九であそこまで珍しい性格にはなりませんよ」 丁度輝が含みを持たせた発言を終えたところで、彼らは診察室に着いた。 「そこに座れ」 診察の準備を終えたレイアンが、少女にそう告げる。少年が手伝って椅子に座らせ、レイアンは彼女の脈を測り始めた。 「栄羅さん、後頼みますね」 「ええ」 女性の診察を覗くのも気が引ける。輝に促されて、華狩は診察室を出た。 「天才なのも確かですけどね」 部屋の外で、再び輝が口を開いた。話の続きだ。 「昔はね、もっと危うげな方でした」 「昔?」 「もう、二年前になりますね」 輝の口調には、どこか昔を懐かしむような柔らかな響きがある。 「栄羅さんとドクターが初めて会った頃ですから、正確には一年と少し前…あんまり昔でもないですね」 「? 輝さんはその前からドクターと知り合いだったんですか?」 「え? あ、いや、僕もその頃知り合ったんですけど」 歯切れの悪い輝を見るのは滅多にないことのような気がする。 「?」 輝は不思議に思いながらもそれ以上の追求はしなかった。話したいことならば話してくれている筈だ。 この日、この会話で華狩が抱え込んだ幾つかの疑問が、すべてレイアン=レーンと輝の過去に関わるものだと言う事を、華狩はまだ知らなかった。 「どうなんですか?」 二人の診察を終えて呼び戻された輝と華狩の前で、レイアンは何事かをカルテに書き込んでいる。書かれているドイツ語を輝は読むことが出来ない。華狩は読める事は読めたが、医療用語には明るくないので一体何が書かれているのかはよく分からなかった。 レイアンの正面にはリアが座り、リフが彼女を守るように横に立っている。彼らの名前は診察後に栄羅と輝で聞き出した。栄羅は未だに輝に対して腹を立てているようで、名前を聞き出した後はさっさと帰ってしまった。 「特に外傷は見当たらない。多少の衰弱は二人共に認められるが、一日二日休養すれば治る範囲だ」 カルテを書き終えたレイアンは、聴診器を外して机の上に置いた。 「姉は少し呼吸器系が弱いようだが、余程激しい運動をしない限りは支障は無いだろう」 「そうですか」 「後は、血液検査をしなければ分からない。それには時間が遅すぎるようだな」 「それじゃあ、もう帰ってもいいんですか?」 レイアンが頷くのを見て、それまで黙っていた華狩がリフに声をかけた。 「帰ろう」 輝が彼らと出会ってから今まで、リフはひどく緊張してリアの傍に立っていた。それが同年代の華狩の傍だと僅かに和らぐのである。華狩もそれを承知しているのだった。 「華狩君、すいませんけど二人を僕の部屋に連れて帰っていただけますか?」 「え?」 「明日の検査の手続きの事とか、少し話さなきゃいけないんです。うちの冷蔵庫今殆ど空なんで、買い出しもしないといけないし。これ、鍵」 何の飾り気もない金属片を掌に落とされる。 「分かりました」 華狩はにこりと笑って頷いた。 「行こう」 リアに触れないようにリフを促して、華狩は診察室を出た。 診察室を出た途端、リフに訝しげな目で睨まれる。どう反応していいかわからず、取り敢えず華狩は笑みを浮かべてみた。 「お前ら、何かやばい事でもしてんのか?」 「やばい事?」 「色々あるじゃん。薬とか殺しとか」 『殺し』の一言が華狩の胸に引っかかった。 「…答えられないよ」 華狩は首を横に振る。LIVEは華狩や栄羅のような未成年が容易に出入りできる場所では無いのだ。それはリフも知っているだろう。否定するだけ無駄というものだ。 「何でだよ」 「君にだって話したくないことがあるんでしょ? 同じだよ」 リフが虚を突かれたように息を呑んで、黙り込んだ。その姿に華狩ははっとする。彼の事情は知らないが、あまりに思いやりの無い一言だった。 「ごめん、少し意地悪だった。初対面の人間信用して、何もかも話す事なんて出来ないよね」 「決め付けんなよ!」 リフが声を荒げた。 「そんなつもりじゃ、なかったんだけど…。ごめん」 リフは苛立っている。リアの手を握る力が強くなったのが、華狩にも分かった。 「一つ言っておく」 苛立ちも露に、叩きつけられる言葉。 「俺はお前と同じにはならない」 「…僕と同じ?」 「俺は絶対、絶対にお前みたいな、そんな眼はしない」 リフが何を言っているのか、華狩には分からなかった。ただ、何とも形容し難い感情が華狩の中に湧きあがっていた。その中で、僅かにリフを羨む気持ちがある事にだけは気付いた。 目の前の少年の瞳には強さがある。そして、それは守るべき者である姉に常に注がれている。 華狩には、そんな存在が無かった。 「マリアに会って来ましたよ。研究室で貴方に言われなかったら、もう少し延びてたでしょうけど」 レイアンの眼差しは、いつも通り書類の上に置かれている。それを、毎回目を逸らしていると感じてしまうのは、勘繰りすぎなのだろうか。 「二年って、案外長いですね」 「俺には分からない」 微かにレイアンは眉根を寄せる。そして椅子を回転させて輝に目を向け、書類を手渡した。 「ドイツ語は分からないんだったな?」 「…ええ、どうも」 カルテが英語に翻訳されている。整然と並べられた読み易そうな文字を確かめて、輝はそれを腕に抱えた。 「明日の朝、十一時に研究室へ来い。検査の準備をしておく。…二人分」 「え?」 「確かに、弟のほうが姉よりは健康だった。だが、それは基準となる姉の健康状態が明らかに水準を下回っていたからだ」 確かに、リアは明らかに何かを病んでいた。瞳を見れば分かる。 「感染の可能性は?」 「調べなければ断言は出来ないが、恐らくは無いだろう」 輝は眉を顰める。感染の可能性がゼロでは無い事に対してではなく、リアの瞳が心を病んでいるように見えたことを思い出したからだった。 「…分かりました。それじゃ、また明日」 診察室のドアが閉められた。後の一人残ったレイアンはそれでも尚、ドアを見つめていた。 (何かを考えたな) 思い出したのかも知れない。 例え銃を突きつけられていても、輝ならばそれなりの対処が可能だった。 リフも訓練はつんでいる。しかし、経験は無い。彼の瞳に血は染み付いていなかった。無経験の者が衝動でなく人を殺す時、多くの場合はかなりの迷いが生まれる。輝には、その隙をついてリフを逆に殺す事もできた。適当に交わして放っておく事など、造作もない筈だ。 「……」 煩わしげに眼鏡を外すと、レイアンは一つ溜息を吐いた。 音もなくするりと入り込んだ鍵を回して、華狩は黒く塗られた扉を開けた。手で促して、華狩の動きを監視していたリフを先に入れる。リフに手を引かれてリアが入り、華狩がそれに続いた。 「広いな」 ぽつりと呟いたリフの声は、純粋な驚きに満ちていた。初めて少年らしい声を華狩は聞いた。 「うん」 華狩が勧めるまでもなく、二人はソファに腰掛ける。 「ごめん、僕のうちじゃないから勝手が分からないんだ。お茶がどこにあるか聞いてくれば良かった」 華狩がそう言い終わった途端、電話のベルが鳴った。 「はい、柏崎…じゃなくて、紅牙ですけど」 『あ、華狩君? 僕です』 輝の声だった。まるで図ったかのようなタイミングに、華狩は僅かに笑う。 『そろそろ着いてる頃だと思って。言い忘れたんですけど、すいませんが二人にお茶淹れてもらえますか? お茶は冷蔵庫の横の食品棚の真ん中に入ってます。砂糖も一緒に。ミルクは冷蔵庫の中です。あ、でももし二人が眠そうだったら寝室連れてっちゃって構いませんから。着替えはクローゼットの中に入ってますから、適当に』 輝の声の後ろに、独特のざわめきが聞こえる。売店の近くだろうか。 「分かりました」 『これから買い物して帰りますから、すみませんがお願いします。それじゃ』 受話器を下ろすと、華狩はリフの方へ振り返った。 「お茶の場所分かったけど、飲む?」 「電話、さっきの奴か?」 リフは嫌悪感を露に尋ねてくる。 「そうだよ。お茶いるの?」 リフが頷いたので、華狩は二人分の紅茶を入れた。食品棚の真ん中の棚に紅茶の葉と砂糖以外何も置かれていなかったのには、驚いた。輝は霞でも食べて生きているのだろうか。 「はい、どうぞ」 ソファに身を沈めていたリフの前に、カップが置かれる。紅茶が二人分であることに気付いたリフは、華狩を見上げた。 「お前は飲まないのか?」 「僕はすぐ帰るから」 「あ、そう」 その時、扉の開く音がした。ドアを開ける音からして輝だと分かる。彼はレイアンを『齢十九であそこまで珍しい性格』と評したが、同様の事が輝にも言える。二十三という歳には不釣合いなほどに落ち着いた彼の性質が、音にすら出ている。 「お帰りなさい」 輝は左手に紙袋を抱えていた。 「すみません、お茶まで淹れてもらって」 「いえ、いいんです。それじゃ僕、帰りますね」 部屋の隅に置いたコートを抱えて、華狩は輝と入れ替わりに玄関へ向かった。帰ると言っても階段を三階分下るだけだ。 「今日は色んな事に付き合わせちゃってすみませんでした」 見送りに出てきた輝が苦笑しながら言う。 「気にしないで下さい。楽しかったですから」 華狩は笑って首を振った。仕事上の駆け引きなどを考えずに話の出来る華狩の貴重な存在に、輝が心中で頭を下げていた事には気付かず、彼は部屋を後にした。 輝はリビングへ戻った瞬間、射る様な視線を感じた。誰の視線か確認するまでもない。 「あいつ帰ったのか?」 「ええ。彼はここの三階下に住んでるんです」 人差し指で床を指してから、輝はキッチンへ向かった。 「夕食、何でもいいんですか?」 「…腹は減ってない」 「お姉さんは?」 「多分減ってない。元々かなり小食だから」 輝がリフと会ってから今まで、リアは決して自我を見せようとはしなかった。リフが彼女の感情の全てを代弁している。どうやら双子のようだし、何かしら通じるものがあるのかもしれない。 「それより、眠い」 「なら、寝室はそこの扉です。着替えはクローゼットの中。勝手に開けて構いませんから」 示されたドアの先と輝の顔を、リフは交互に見る。 「ベッド、二つあるのか?」 「いいえ、一つしかありませんけど」 「いいのか?」 躊躇いがちな問いに、輝は笑った。 「人を脅迫してまで連れてきた人が何を言ってるんですか。構いませんよ」 「…分かった」 疲れの為かリフは素直に頷いて、寝室へ入っていった。その後姿を見送って、輝はソファに座る。彼らが食事をしないというのなら、別に今作る必要もない。 時計を確かめると、八時を回ったところだった。 しなければならないことは無い。眠くもない。そこまで考えて、輝は栄羅との約束が有耶無耶になってしまっていたことを思い出した。約束した自分が都合を悪くした所為だ。結局リフとリアを連れて帰ってから今まで、栄羅は約束のやの字も口にしなかった。 輝は電話に手を伸ばす。栄羅の番号は短縮ダイヤルに登録してある。コール三回で彼女は電話に出た。 『もしもし?』 「ああ、栄羅さん」 『…輝さん?』 その声に、輝は違和感を感じた。栄羅である事は間違いがない。しかし、いつもの彼女とは違う、もっと弱く、微かな声だった。 「栄羅さんですよね?」 『勿論ですわ。何でそんな事お訊きになるんですの?』 常よりも密やかな栄羅の声には、それでもどこか喜びが感じられる。 (ああ…そうか) あの遣り取りの後だ。栄羅は輝を怒らせたかと思っていたのだろう。その輝から連絡があったものだから、彼女は安堵しているのだ。どう考えても昼間の栄羅の怒りは当然で、輝には軽率だと責められるだけの理由があった。それを下手に悪知恵が働く所為で、栄羅に自分が馬鹿な嫉妬をしたと勘違いさせてしまった。 悪い事をしてしまった。 (本当はこの声が、普通なんだ) 栄羅も人間だ。落ち込みもすれば悲しみもする。輝は、十七歳の少女の声を聞いているのだ。 『輝さん?』 歳相応の栄羅の声は、どこか耳に心地良い。 「あ、すみません。あの…今日の事、謝ろうと思って」 『え?』 「さっきの僕の言い分は凄くずるかったから。それと、約束も反故にしてしまいましたし」 『不可抗力ですわよ』 栄羅は慰めるように言ってくれた。 『いいんです。毎日会ってるんですもの。これから先も機会は幾らでもありますわ』 栄羅は、理解しようと努力してくれている。彼女の優しさは、不意に会いたくさせる何かを持っていた。 「明日の朝九時ごろ、空いてますか? 朝の散歩に付き合っていただきたいんですけど」 『あら、健康に目覚めましたの?』 「ええ。不摂生ばかりしてたから」 電話の向こうで、栄羅は笑ったようだった。 『分かりましたわ。なら迎えに来てくださいな。デートして差し上げますから』 「よかった。必ず迎えに行きます」 会話が途切れた。もう、話すこともない。 「それじゃ、お休みなさい」 栄羅と知り合って初めて、輝は彼女にそう告げるのに躊躇いを感じた。 『お休みなさい。本当に、気になさらないで下さいな』 最後まで柔らかな響きを残して、電話は切れた。受話器を下ろすと、輝はソファに沈み込んだ。深く溜息をつく。 (…まずい) 目を閉じて、心の中で呟く。何がまずいのか、彼は自分自身に対してすら明言を避けた。 ロザリオが、ずしりと重かった。 輝がソファで大きな溜息をついた、そのドアを一枚隔てた向こうは闇に包まれていた。間接照明のもたらす適度な暗さが、リフの心を落ち着かせる。傍らに眠るリアの顔は、今も昔も変わらない。 しかしその睡眠すらもベッドに入ったら眠れと命令されたゆえのもの。彼女が父に命じたのだ。自我が壊れ行く恐怖に怯える娘に、一つずつ生きるために必要な命令を刷り込んだ。操る人間が消えたいまでも、それは忠実に守られている。 「リア…」 いつも夜更かしをしては二人で父に叱られた。たっぷり寝ないと大きくなれないよと脅された事も、眠れないからと昔話をせがんだこともあった。 そう遠い過去の話では無い。あの頃リアと父の昔話を聞いていた自分の未来は、何故こうなってしまったのだろう。 何もかもが変わってしまった。 変わらず暖かなリアの掌を握り、リフは声を絞り出す。 「昔に戻りたい…」 未来に進んだとしても、明かり一つ見えない。たとえこの先に再びリアが自我を取り戻し、父の微笑を見られる未来があったとしても、リフは前のように笑えない。リアがいつまた自我を失うか不安に苛まれるだろうし、我が子を道具のように扱った父を慕うことも出来ない。 リフは幸せにはなれない。だから昔に戻りたい。 たった十年前の過去は、百年後の未来以上に遠かった。 |
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