第一章 十二月二十五日
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 栄羅が目を覚ました頃、既に時計は九時を回っていた。自分の部屋とは違う天井を、栄羅はぼんやりと見つめる。
「!」
 突然、ここがどこなのか気付いた。
 LIVEの情報管理室の仮眠室だ。仕事が忙しくて家に帰れず、ここで仮眠をとっている輝を何度か頼まれて起こしたことがある。
 しかし、確かに自分は輝の部屋で眠っていたはずで。
「……まさか」
 乾いた声で栄羅は呟いた。
「……嘘ぉっ!」
 思わず頭を抱えた。顔が熱くなる。
 輝がここまで自分を運んだはずだ。
(ダイエット三日坊主でやめるんじゃなかった)
 もう少し起きていれば、輝に抱き上げられるのも分かったかも知れない。
(損したわ…)
 そう言えば、と栄羅はふと思い出す。
 あまり嬉しくない事を何か聞いた気がする。
「…あ」
 思い出さなければ良かったのに。とっさにそう思った。
「キ、ル」
 考えたくはなかったが、響きからして女の名前だ。栄羅の知らない、輝の知っている女の名前だ。
 英語でキルなどとつける親はまずいないから、日本名だ。
 最近は漢字の見た目の美しさや表意文字ゆえに子供に願いをこめた名前をつけやすいという理由にひかれて子供に日本名をつける欧米人も多い。
 栄羅自身も今は日本名で暮らす身だ。
「誰かしら…」
 輝は物にそれほど執着を抱く性質ではない。その輝が大切そうにロザリオを持っていたのだ。彼の周りに何人もいる同僚の女性とは明らかに何かが違う。
本人に訊く勇気はない。上手くはぐらかされて終わりだろうとも思う。輝はそういうことにかけては天下一品だ。
 ここで悩んでいても仕方がない。いつか、勇気が出たらその時に聞こうと決めて栄羅は仮眠室のドアをあけた。
「あれ、栄羅さん?」
 丁度ドアの外に、書類の束を抱えた華狩がいた。
「華狩さん? あら? どうしてここにいらっしゃいますの?」
「年末忙しいって輝さんが言ってたから、お手伝いです」
「アルバイトですの?」
「いえ、ボランティアで」
 華狩はにこりと笑った。いつもながら感じのいい少年だ。
 栄羅は小柄な華狩には多すぎる書類を見つめる。
「輝さんと会いまして?」
「ええ。栄羅さんに心配かけたようですって」
「その他に、何か仰ってませんでした? 輝さん」
「いいえ?」
 華狩はきょとんとした顔で栄羅を見つめる。その視線から逃げるように顔を逸らして、栄羅は咳払いをした。
「ならいいですわ。半分お持ちしますわね」
 華狩の答えを待たずに栄羅は書類を半分奪い取る。
 どうせ遠慮するに決まっているのだ。華狩は輝と似た所があるから、そういう面では付き合いやすい。
「これ、どうするんですの? どこかに運ぶんですの?」
「ドクターの所に持っていけって」
「そうですか。じゃ、行きましょ」
 栄羅は華狩の前に立って歩き出した。
「華狩さんは」
 迷いそうな入り組んだLIVEの廊下を不安げに見回しながら歩く華狩に向かって、栄羅は口を開いた。
「ドイツ系でらっしゃるんですわよね? 華狩=ブラウ=柏崎…さんでしたかしら」
「そうです。父がドイツ人で」
 華狩は頷いた。
 素直に笑う華狩には、出会ったときからいい印象を抱いていた。純朴で、まっすぐな少年だ。普段は銀色の瞳をカラーコンタクトで隠しているが、そんな薄いシリコンの膜で隠せるほど華狩の瞳の光は弱くなかった。
『初めまして、華狩=ブラウ=柏崎です』
 その一言を言う為にかわいそうなほど華狩は緊張していた。こういう場所に立った事がないのだと、教えられなくても分かった。
(この子も、普通だったら良かったのに…なんて)
 そんな風に考えたことを、覚えている。
「髪の色も父親譲りなんです」
 華狩は照れくさそうに言う。
「僕、両親が十七の頃に生まれたんです。後ニ年で父と同い年になって、どんどんその年齢追い抜いていくんだと思うと、なんか変な感じです」
「そうだったんですの。でも、素敵ですわ。若くしてご結婚なさったんでしょう?」
「あ…」
 華狩は苦笑した。
「両親、結婚はしてないんです。愛し合ってたのは確かですけど、僕が生まれる前に父は死んでますから」
 そして、華狩は栄羅が謝罪するより前に気にしないでくださいと付け加えた。
 謝るタイミングを逸した栄羅は、どこか気まずい気持ちを抱えたまま廊下を歩く。
 僅かに後悔を抱いて、研究室のドアを開けた。
「ドクターレイアン=レーンはいらっしゃいますかしら?」
 研究室の無愛想な研究員にあまり友好的でない態度で尋ねると、それ相応の態度なのか、親指で研究室の隅を示すだけという答えが返って来た。
「ありがとうございます」
 栄羅に変わって華狩が礼を返す。それに全く無反応な研究員が横を通り過ぎるのを待って、二人は研究室の隅に向かった。
「ドクター」
 栄羅が声をかけた先には、漆黒の美貌を持つ青年がいた。
 書類の上にペンを走らせる手を止めて、レイアンは栄羅に目を向けた。
 眼鏡の奥の瞳が、微かに狭められる。
「何の用だ」
「情報管理室からの書類です」
 華狩と栄羅の差し出す書類を確認すると、レイアンは机の引き出しへそれをしまった。
「丁度いい。そこへ座れ」
 レイアンの手が間近にあった椅子を引き寄せた。
「なんですの?」
 栄羅の質問には答えず、レイアンはファイルから何枚かの書類を取り出した。睨みつけるようにそれを読み、新しい一枚に今日の日付を書き入れた。
「外から見た限りでは何の異常もないようだが。どこか具合の悪い所は?」
「特にありませんわ」
「ならいい」
 書類に向かったレイアンの横で、首をかしげている栄羅に華狩が囁く。
「昨日仕事だったから、一応検査してくれてるんじゃないですか?」
「そうですかしら」
 栄羅は眉根を寄せた。
 目の前に座るこの青年は確かに類まれな美貌と気品を持つ人間とは思えない青年なのだが、過去に何かがあったらしく病的なまでに無愛想だ。漆黒の髪と瞳のレイアンは、闇の領域に属する者のような雰囲気すらある。その点からして、すでに栄羅とは大きくかけ離れたものなのだ。
くわえてポーカーフェイスの人間の思うことを読み取れるほど栄羅も大人ではない。
 華狩は持ち前の素直さでもって上手くレイアンと付き合っているようだ。
 栄羅は、華狩が羨ましいと思った。
「触るぞ」
 悶々と考えていた所為か、レイアンが短く告げたその言葉を栄羅は聞き漏らした。
 レイアンが白い掌をぺたりと栄羅の頬に当てた。
「な、何するんですの!」
 栄羅は思わず大声をあげた。自分の研究以外には何の関心も持っていないような研究員の視線が栄羅に注がれる。
 流石に十七年も生きていればそれなりの分別もつくようになるので、突然触ってきた人間でも殴り飛ばすという行動にまではいたらなかったが。
 ――しかし、栄羅の胸の辺りで拳が震えていた。
「触るぞ、と言ったはずだ。聞こえなかったのか?」
 レイアンの声が、明らかにトーンを下げて響く。
(…ひょっとしなくても怒ってる…?)
 栄羅と視線を交わした華狩が、おずおずとレイアンの表情を伺う。
「………」
 しかしレイアンは常と変わらないポーカーフェイスで、拍子抜けした華狩は溜息をつく。
(もしかして、驚いただけとか?)
 どうにも掴み難い人物だ。
 だが、レイアンよりは感情を素直に表し華狩よりは強気の栄羅は、その美しい顔に明らかな怒りを浮かべていた。
「…申し訳ありません。聞いていませんでしたわ」
(輝さんに何とかしてもらおう)
 栄羅の声を聞いた瞬間、華狩はそう決める。
「聴力検査もするか?」
(あああ輝さん…)
 輝がこの場にいれば、レイアンの露骨過ぎる皮肉に栄羅の眉がつりあがるような事もないだろう。
(どうして輝さんここにいないんだろう…)
 輝の仕事も十分承知だが、少しだけ怒りを感じる。理不尽だと自分でも分かってはいたが、抑えられなかった。
「いいえ、結構ですわ。ドクターの目からご覧になって何か不安な点はございまして?」
「特にない。…じゃあ次はお前だ」
 栄羅が今まで座っていた席に華狩はおずおずと腰掛けた。どんなに足が長くても、百九十センチ以上の身長を持つ彼の座高はかなり高い。小柄な華狩は威圧感を覚える。
「…あの、僕もどこも怪我はしてないです。風邪とかも引いてないです」
 聞かれる前に答えられることには答えてしまおうとした華狩の言葉に、レイアンは意外な物を見たように目を僅かに見開いた。
「話が早い」
 レイアンの言葉が栄羅への皮肉なのか、純粋な華狩への褒め言葉なのか判別は難しい。レイアンの表情は全く変わらない。表情から言葉の意味を察するということが出来ないのだ。
 再び机に向き直り、カルテに何事かを書き込みだしたレイアンを、華狩は不安げに見つめる。
(別に、捕って食べられるわけじゃないんだけど)
 なまじ異常なまでの美貌の持ち主だから悪いのだろうか。彼の漆黒の瞳は薄い硝子一枚では隠すことも不可能なほど冷たく凍り付いているように見える。
「俺が、人間の裁き方を知っているとでも?」
 遠慮を忘れ、レイアンの容姿を見つめていると突然そう尋ねられた。相変わらず目はカルテの上から動こうとはしないが、あからさまな視線は彼にとっても不快なのだろう。
「すいません」
「好奇の視線よりはましだ」
「…すいません」
「一度謝ったら充分ですわよ、華狩さん」
 栄羅の言葉にこもる明らかな苛立ちにもレイアンは動じない。
「ドクター、少し言い方というものをお考えになってくださいな」
 華狩が慌てて栄羅の袖を引いた。
「栄羅さん」
 栄羅は鋭くレイアンを睨みつけている。
「やめてください。他人の為に怒っても自分に残るのは嫌な気持ちだけです」
 レイアンが僅かに瞳を揺らした。
 栄羅が俯く。その拍子に彼女の銀髪が肩口から零れた。
 部屋を出て行くことを許されているのかいないのか、それさえも分からない。
 戸惑って栄羅に目を向けるが、彼女の表情を見ては帰ろうと促すことも出来なかった。
 何とかこの場を打ち破るものはないかと華狩は辺りを見回す。
「あ」
 曇り硝子のドアの外に、濃金の髪の人影があった。期待通りであるとすれば、それは華狩が今一番求めている存在だ。
 その人物が手を伸ばしてドアを開けるのが分かった。
「輝さん」
 思わず期待を込めた声で華狩はその人物の名を読んでいた。その声にこめられた期待の理由など知る由もない輝は、ドアを開けた途端の華狩の声に目を丸くした。


 輝は立ち止まっていた。
 机に向かって何かを書いているレイアンと、不機嫌なまなざしでこちらを見つめている栄羅がいる。華狩はその間に挟まれた状態だ。
 何があったか、大体の状況は察せられる。
(仲良くはなれないだろうと思ってたけど…)
 輝は華狩に微笑んでやった。
 この二人の間に立たせるには華狩は優しすぎる。
 華狩が口を開いた。しかし、その華狩よりも早く栄羅が輝に明らかに怒りのこもった言葉を向けた。
「どうして輝さんがここにいらしてますの?」
「ドクターに用事があって」
 華狩に向けていた笑みをそのままに、輝はあっさりと言葉を返した。
 しかし、栄羅はその微笑には騙されない。
「報告書全部書いたら寝るって、仰いましたわよね? どうして今ここに来てますの」
「その前に体の調子見てもらいに来たんですよ」
「日が昇りすぎてますわ。あれから何時間経ってるとお思いですの? 私今日の約束が反故になるのも疲れた顔の輝さんの隣歩くのも嫌ですわよ」
「……」
(これは…)
 これ程栄羅の機嫌が悪いとは流石に思いもしなかった。
 華狩でなくとも彼女の相手をさせるのは酷だ。
 輝は華狩に目配せをする。その労いが分かったのか、華狩は照れたように笑った。
 レイアンは周囲の騒ぎに自分は全く関係していないと思っているのか顔を上げることすらしない。
「今何時だと思ってますの」
 栄羅の声を聞いた途端、華狩は不安げな顔になった。普段の彼女からは思いも寄らないほど厳しい声。
「九時…四十五分ですね」
「ドクターの出勤時間は?」
「研究室は何時でしたっけ?」
「特に決まってはいない。俺は八時半からここにいる」
「だそうです」
「貴方今まで何してましたの?」
「上とちょっと仕事について話し合いをしてました」
「その前は?」
「同じ方と、今度の会議の資料作りを」
「仕事してたってことですわね?」
「そうですね」
 栄羅の問いに何一つ躊躇うことなく輝は答えている。
(すごい…)
 華狩は知っている。これでもどういう訳か最終的には栄羅の怒りは収まるのだ。
 悪びれずに笑っている輝を栄羅が上目遣いに睨みつけているこの状況を好転させる手段など、華狩には考えても思いつかない。
 栄羅はしばらく無言で輝をにらみつけていたが、やがて溜息をついた。
「……私だって、あなたの忙しさを知らないわけじゃございませんわ。でも、倒れてしまったら何にもならないじゃありませんの」
「そうですね。すいません」
 それは突然だった。
 栄羅が呆れたように苦笑して見せた。
(…何で?)
 輝の態度のどこが、栄羅の気持ちを和らげたのか。
(僕はどうして出来ないんだろう)
 思わずそんな風に考えて、華狩は慌ててその考えを振り払う。
 確かに輝と栄羅は華狩にとって『仕事』の仲間ではあるけれど、華狩が『仕事』を始めるよりずっと早くから二人は組んでいるのだ。輝は確実に華狩より多く栄羅について知っている。
 そして輝は華狩よりも八年多く生きていて、二十三歳と言う年齢にしてLIVEの中枢をになう仕事をこなしている。
 輝に華狩ができないことができてしまうのは、当然だ。
(だから疎外感なんか感じちゃいけないのに…)
華狩の目の端に、ペンを走らせることをやめないレイアンの姿が映った。こちらの事を気にしている様子はない。
「で、ドクター」
 不意に輝がレイアンへ声をかけた。それに反応した漆黒の瞳がこちらを向いたのに、華狩はかすかに肩を揺らす。
 眼鏡の奥の瞳が輝を上から下までゆっくりと眺める。
 ややあって、レイアンは言った。
「…お前は、見なくても分かる」
「そうですか?」
 首を傾げた輝に、簡潔な診断が下された。
「寝ろ」
「…それだけですか?」
「他に何がいる? 仕事をするなとでも言えば聞くか?」
「…いえ。正しい診断です」
 輝は苦笑した。
「それと」
 レイアンがそこから突然華狩には理解できない言葉で何かを輝に尋ねた。輝は首を振り、同じ言葉で答える。
「日本語じゃないですかしら。…多分」
 確か輝さんもドクターも話せる筈ですわ、と栄羅が囁いた。
 漢字の形や表意文字であることを好んで子供に漢字の名をつける欧米人も昨今増えてきたが、日本語や中国語を話す者は未だにやはり少ない。
 研究室を出ると、華狩は輝に尋ねた。
「輝さん、日本語話せるんですね」
「え? ああ、華狩君の前で話すのは初めてでしたか? 昔、人に教わってね」
 輝の足は情報管理室とは違う方向に向かっている。この先にあるのはエレベーターホールだ。
 彼は帰って眠るつもりなのだろうと考えながら、華狩は話を続けた。
「そうだったんですか。僕の祖父が日本人なんです。僕は全然話せないんですけど、母は国籍上は今も日本人です。教わりたいな。輝さんは、どこで勉強されたんですか?」
 そう問うと、輝はふと華狩から視線を逸らした。
「僕は、厳密には教わったとかじゃないんです」
「え?」
 華狩が矛盾する発言の意味を尋ねようとしたのを遮るように、輝はエレベーターの前で止まった。
「そろそろ、帰りますね」
 栄羅が溜息をつく。
「やっと休む気になってくださいましたの?」
「まあね」
 栄羅の視線にも怯まず、輝は頷いた。
 エレベーターの扉が開く。柔らかく足音を響かせて輝がエレベーターに乗り込み、それじゃ栄羅さん、六時に下のロビーで、と告げたと同時にドアが閉まった。
「…それで、ドクターは輝さんになんて言ったんでしょうね」
「知りませんわよ! 全くもう、ドクターに言われると一発なんだから!」
 栄羅は再び機嫌を損ねてしまったようだった。


 掌が汗ばんで、繋いだ手がずるりと抜け落ちていく。
「リア!」
 どさりと背後で彼女が倒れる。栗色の滑らかな髪がアスファルトに広がる。
「リア、立って!」
 殆ど背負うようにして立たせたリフの姉は、抗いもせずに再びリフに手を引かれ走り出す。
(恐い)
 恐怖が足を急がせる。はるか後ろで響いていた筈の足音が、距離を縮めてくるのが伝わる。走る自分の足音と、心臓の鼓動は比例して早くなる。
 姉は、手を引かれなければ走ることもしない。
 リフは走りながら、ズボンのベルトに差した銃を確認する。必死の思いで準備したのはたった一丁のリボルバー。
 酸素が足りない。足がもつれる。
 何度転んだか分からない。
 こちらが力を抜けばすぐに手の内から抜けていく、リアの手は頼りない。それでも彼女が着ているあまり質が良いとは言えない生地の、作りも適当なスカートが翻る。
 共に走っている。
「どうしてこの町は、こんなややこしい作りになってんだよ…ッ!」
 小さく毒づいて、走るスピードを上げた。覚えた地図の中で出来るだけ入り組んだ道を走っているつもりだったが、外出の経験がないのは致命的だ。
「スラムに入れば何とかなるって思ったんだけどな」
 リフは、大丈夫と微笑んでくれる優しい姉の微笑を期待して振り向いた。
 そんなものは無いと、分かっていたけれど。
 引かれるままになっている掌。自我を失ってしまった瞳。
 病んでいる。
「リア、リア! あそこ曲がるよ」
 頭の中の地図では、三メートルほど先の曲がり角を抜けた所に大通りがある。入り組んだ場所を走り回って勝ち目がないのなら、少しでも人の多いところを走る。
「リア、絶対助けるから」
 答えるのは軽い足音。ただそれだけだった。
 それ以上喋る余裕もなく、リフは角を曲がる。
「…あ」
 リフは足を止めた。とてつもない恐怖に襲われた。
(…殺される)
 目の前には、レンガの高い壁があった。リフの身長では超えることも不可能で、踏み台もなかった。
 リフの背中にリアがぶつかる。
「…こっち!」
 逃げ道を間違えたと悟るまでの時間が命取りになる。時間にすればほんの一秒の停止。
 リフは来た道を引き返した。僅かでも止まった後の再びの全力疾走は辛い。訓練を受けたリフですら辛いのだから、リアは限界に近いだろう。
(どうしよう)
 リアを背負って走ったほうが速いだろうか。
(どうすればいい?)
 どこかに隠れる場所を見つけた方がいいだろうか。
 もう考えることも出来ない。
(恐い)
 足音は迫ってきている。後ろを振り向けば、十五人ほどの集団がすぐそこまで来ている。
「…畜生」
 自棄を起こして、リフは右手すぐにあった角を曲がった。
「!」
 曲がった途端、くたびれたスニーカーの底が派手に地面を擦った。
「…Vater」
 憎しみを込めたドイツ語が、リフの唇から漏れた。彼の瞳の先に、何人かの屈強な男達を従えた上等なスーツの青年がいた。
「未だに父と呼んでくれるとはね。嬉しいよ。しかし良かった。ここを曲がってくれて。もう少し先にも何人か置いているんだ。そっちに行っていたらお前が私をそう思ってくれていることも知らずじまいだった」
 青年は周囲の男達に指で何事かを命令する。
(…どうしよう)
 腕でリアを庇い、壁際に追い詰められながらリフは考えている。
(どこか、どこかに抜け道が)
 後ろに立つリアの肩が、壁にぶつかった。
「リア」
 リアは感情を失ってしまった。呼吸する意志すら、失ってしまった。彼女が今呼吸をして、生きているのは目の前の父にそう命令されたからだ。
 そしてリアは、リフの命令を聞く事は無い。父にそう命令されていない。
「…お前が走ってくれるんなら、俺はその道を開くだけでいいのに」
 銃にこめられた分も入れて、持っている銃弾は十八発。それ以外に身を守る手段は無い。
 目の前の男達は十人程度。自分の命を捨てさえすれば、何とかできる。
 リアが、逃げろと言われて逃げてくれるのなら。
 黒服の一人が、銃口をこちらに向けた。直感でリフはリアを抱え込んで地面に伏せた。乾いた音が、今までリアの肩が触れていた壁にめり込んでいた。
「速いな」
 感嘆とも、呆れともつかぬ声が頭上で響く。
「リアは、殺さないでくれ」
 二発目はよけられない。この態勢では無理だ。
「俺は、どんな風に殺されてもいいから…。見せしめなら、一人で充分だろ?」
 アスファルトに知らず爪を立てた。鈍い痛み。指先から滲み出る血が、地面に染みを作った。
「姉思いだな」
 父が何かを命令した。銃口の照準が、自分を確実に殺す位置に合わせられた。
「リアを、助けてくれるのか?」
「お前の思いに免じてね」
 慈悲だと言わんばかりの声はそれでも卑怯なほどに優しく、昔の記憶を呼び起こす。昔はこの人も、優しかった。
「本当に、俺を殺すんだな」
 何がいけなかったのだろう。
 涙が零れて、地面に落ちた。爪の向けた指先にも落ちて、酷く痛んだ。
 その痛みに顔をしかめて、リフはふと気付いた。
 ──痛んでいるのは、指先だけではない。
 そう思った途端、頭に騒音が走った。
「!」
 心臓が爆発したようだ。体が燃えているように熱くなる。
 形もないのにはっきりと分かる憎しみと悲しみと、ずっと探している笑い声。
 渦巻く負の感情と正の感情が何度も切り替わる。絶望した次の刹那に誰かに受け止めてもらえると言う自信に代わる。
「…、リア、リア…!」
 リアの瞳が、こちらを向いていた。
 その瞳の奥に、リフは、金髪の少年を見た。


 カーテンから透ける太陽光で、部屋の中の闇は薄められていた。広い部屋の隅にはオーディオセットが置かれ、その脇の威圧感を感じさせるほどに高いCDタワーには上から下までCDが入れられている。
 LIVEの職員寮は全室個室の上、平均的なマンションより一ランク上の作りになっている。だが、この部屋はその中でも更に上のランクに属している部屋のようだった。
 寝室は、どの部屋よりもスペースが広く取られていた。セミダブルのベッドは備え付けで、枠組みに使われている木材はかなり上質のものであることが一見して分かる。
 そんな部屋で、毛布一枚だけをかけて輝は眠っていた。
 熟睡しているとは言い難い表情。彼はLIVEを出たときの服装のまま、眠っていた。ネクタイだけは辛うじてサイドテーブルに放り投げられていた。
 輝が寝返りを打った拍子に、緩められたシャツの衿から零れるように、ロザリオがシーツの上に落ちた。ちらちらとした弱い煌きの、ピジョンブラッド。
 指先が僅かに震えた。
「祈…瑠」
 ゆっくりと瞼が持ち上がる。
 瞳の焦点が徐々に合っていく。彼が完全に目を覚ますまで、暫くの時を要した。自分が何処にいて何をしていたのか、数十秒かけて把握した輝は緩慢な動作で身を起こした。倦怠感の残る頭を振る。
 それにつられて、しゃらりとロザリオのチェーンが音を立てた。
 サイドテーブルの時計は午後三時を示している。栄羅との約束まで、後三時間。
 ベッドから降りると、輝はクローゼットへ手をかけた。皺一つないシャツとこの所履く機会のなかったジーンズを手に、バスルームへ足を運んだ。シャワーを浴びて、未だにどこかぼんやりとしていた意識を完全に目覚めさせる。
 そうして漸く、彼は昼食のためにキッチンに向かった。冷蔵庫のドアを開ける。冷気と明かりが同時に辺りに広がった。
「……」
 そう言えば、買出しを最後にしたのはいつだったか。
 冷蔵庫にはろくなものが入っていなかった。数種類のアルコールと、その肴が僅かには入っているばかりだ。部屋には寝に帰るだけの日々が続いていた。仕方ないと諦めて、輝は出かける仕度をした。
 髪を乾かしてコートを着る。完全暖房の部屋から一歩外に出ると、冷気が輝の頬を包んだ。暖房とシャワーで火照った頬を冷やす、心地良い冷たさ。
 ジーンズと同じか、もしくはそれ以上に着ていなかった筈のコートのポケットには、合わせて五十ドル程の紙幣と小銭が入っていた。
(どうしようかな)
 当然LIVEにも食事を取れる場所はある。けれど、ここで何年も暮らしていれば流石に飽きる。故にLIVEで長期間暮らしている者は段々に自炊派になっていくのが常で、輝もその一人であった。
 大多数の人間が就業中の今の時刻、エレベーターは輝一人きりだった。
「一階」
 音声識別プログラムの組み込まれたエレベーターは、それ自体が防犯機能の役割を果たしている。職員と管理人によって一時的に登録された者の声紋を判別するプログラムだ。
 ピ、と短くプログラムが認識した音が響き、エレベーターが動き始める。エレベーター特有の奇妙な浮遊感の中で、ふと輝はあることを思い出した。
「あ」
 部屋に戻る前に訪れた研究室で、レイアンに言われた事があった。
「…行ってこなきゃ」
 輝の呟きに再びプログラムが認識音を立て、マニュアルニ沿ッタ命令ヲシテクダサイ、と無機質に懇願した。
第二章
第一章
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