第三章 傷つく者
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 一体何が起こったのか、誰からも説明はなかった。銀髪の女にも黒髪の医者にも、この部屋の持ち主にも尋ねたが、彼らは皆それぞれ自分のやり方で返答を避けた。
 つまり、誰も何が起こったのか分かっていなかったのだ。
 リアは眠っている。少し疲れている様だ。
 そう見えるのは、自分が疲れているからだろうか。
 もう気力だけでは誤魔化せなかった。
(…疲れたなぁ)
 リフは疲れているのだ。
 カーテンを閉め切っても、午前中の柔らかな日差しが部屋をぼんやりと照らす。リアの眠るベッドに寄りかかって床に座っていると、酷く気分が塞いだ。
 寝室の外では何やら話し声がしている。だが聞き取れない。知りたいとも思わない。
(何に疲れたんだろう)
 フローリングの継ぎ目は、まるで自分の歩いている道のようだ。細く、真直ぐで逃げ道も無く、ある日突然壁にぶつかって途切れる。
 ここに来たのは間違いだっただろうか。それは考えるまでも無く、間違いだったのだ。リアが落ち着いて休める場所があればいいと思っていたが、休めるどころか酷い目にあわせてしまった。
(あの教会に逃げ込んだのが間違いだったのかな)
 目を覚ましてすぐにあそこを出ていれば、こんな事にはならなかった。
 リアの寝息は穏やかだ。あの医者も体調に問題はないと言っていた。それだけが救いだ。
 何処で間違えてしまったのだろう。リフの思考ははっきりとした輪郭を持たないまま、ただ広がっていく。
 逃げている時、違う角を曲がっていればよかったのか。違う通りを選んでいれば。違う区画に逃げていれば。
(…それとも)
 逃げ出した、それ自体が過ちだったのだろうか。
 いずれにしても、リフは間違えた。
(間違えなかったら、俺達は今頃)
 今頃。
 その言葉に続く未来を、リフは思い描く事が出来ない。
 リフの人生で未来を思い描けた時期など、ほんの一瞬だった。
 それでも今まで生きてきたのは、リアを守る為だ。
『もういい』
 あんな残酷な言葉はない。あれがリアの言葉だとは、思えない。思いたくない。
 それなのに、あの青い目の少年が少年の声で語った言葉は、リフの心で張り詰めていた何かをいとも簡単に途切れさせた。
 昨日から、眠っていてもリアがひどく悲しそうにこちらを見ている気がして何度も目が覚める。
「リフ、起きてますか? 入ります」
 すっかり聞き慣れてしまった声が聞こえた。この部屋の持ち主だ。輝と言う名前の青年。
 濃金の髪に青い目をしていて、いつも微笑んでいる。
 リフは彼に似た人物を知っていた。容姿が似ているのではなく、共通点は金髪碧眼の穏やかな青年であるという点だけだったけれど。
 リフは顔を上げなかった。
「休めませんか?」
「リアが」
 リフの言葉を、珍しく輝が遮った。
「貴方の話をしているんです」
 硬い声だ。リフはドアを背に立っている輝に目を向ける。輝は微笑んではいなかった。何を思ってこちらを見つめているのだろうか。リフは首を横に振った。
「俺は、俺自身の話なんかされても分からない」
「…そうでしょうね」
 輝は俯いた。彼の意図がまるで読めない。
「何が言いたい?」
「華狩君が来てます」
 華狩。その名前も知っている。昨日リアをおかしな目に合わせた奴の名前だ。
「会いたいですか?」
「決まってるだろ」
 輝は非常に愚かな問いかけをした。即答するリフを、彼はそれでも部屋の外に出そうとはしない。
「何故彼に会いたいのか、考えてください」
 リアの眠りを気にしての事か。硬質な声は、それでもこの部屋の静けさを乱すものではない。
 しかし、だからこそ輝の抱いている戸惑いが伝わってきた。
 彼の想定していなかった事態が起きているのだ。
「華狩君に、貴方は…君は、何をしたいですか。お姉さんがどうしたいかではなく、君自身はどうしたいですか」
「どういう意味だ?」
「僕は、昨日お姉さんと華狩君の間に何が起きたのかを説明できます。君に完璧に分かる形で。だから、君がただ昨日の事を知りたいだけなら、僕でも充分でしょう」
「なら、しろよ」
「でも、多分華狩君の方がずっと詳細に説明できます。ただ第三者に分かっている事実以上の事も」
「……」
 返答を避けると、輝の青の双眸が僅かにその気配を変えた。
 輝には警戒が必要だと、本能が警告する。
「まず、言っておきます。華狩君は知りませんが、僕は君達の正体を知っています。そして、君は知りませんが、華狩君の事情も知っています。…正直な所を言えば、君達に互いの詳しい話をさせたくはない」
「何故」
「少なくともこの件において、価値がなくなるからですよ。君にも、華狩君にも」
 輝の言っていることがよく分からない。肝心な所が伏せられている。その上で、何か判断を求めている。
 リフは立ち上がり、輝を真正面から見据える。
「言いたい事が分からない」
「君と華狩君が繋がれば、均衡が崩れるんです。我々と、君達の」
 つまりは政府と、リフの父親との均衡。
 ジャスティスとの均衡。
「…僕も分からないんです。どうするべきか。だから訊いているんです。リフ、君はどうしたいですか」
「……」
 事実を知る手段が目の前にある。リアに何が起きたのかを知ることが出来る。
 リフは考える。事実は欲しい。が、絶対必要でもない。リスクがあるようだ。
 拙い事実ならば輝はそもそもこんな問いかけをしては来ないだろう。と言う事は、昨日の出来事そのものはそう重大ではないのだ。しかし、その事実に別の何かが付随してくる可能性がある。
 輝が怖れているのはそこか。
 輝はリフが口を開くのを待っている。
「答えろ」
「?」
「お前にも、あいつがどれくらい詳しい話をするのか分からないんだろう。結果の予想を立てようにも、どうにでも転がる話なんだ。違うか」
「…そうです」
「だから俺の出方を訊く必要があるんだ。返答次第では多少未来を予測する事ができるから」
 これはチャンスだろうか。リフの経験では、読みきれない。
 賭けに出るしかない。
 リフと全く同じところで輝も迷っている。
「俺が知る事実によっては、お前は俺達を殺すのか」
「まだ分かりません。利用はさせてもらいますけど。殺す可能性もあります」
「華狩は」
「殺しません」
「何故」
「彼の価値はそれだけではない」
「別の何処に価値がある」
「答えられません」
 迷う所は同じだが、輝とリフでは元々の情報量が違う。思考力も、彼のほうが数段上だ。それは認めざるを得ない。
「お前にとって、これはチャンスなのか」
 答えられないのを知りながら、リフは問いかけた。
 輝は笑って即答した。
「チャンスですよ」
 やはり、手強い。


「好機だな」
 レイアンはまるで迷うことなく現状をそう断じた。これだから彼には救われる、そう思いながら輝は苦笑する。
「冷酷な見方をすればね」
 研究室は相変わらずの風景である。白衣があちらこちらで翻り、会話はなく、暖房は効いているはずなのにどこか薄ら寒い。彼らも仕事が忙しい筈であったが、他の部署にあるような熱気がここにはまるで感じられなかった。
 一応研究室の隅にあるミーティングルームに場所を移しはしたが、研究室で話していても彼らは知らぬふりをするのではないかと輝は思う。
 会議机の上でレイアンは書類をめくっている。興味本位に覗き見ると、意外なことに休暇時に使用できる職員用の保養施設についての告知であった。
「それも仕事ですか?」
「そんな訳ないだろう。お前の面倒くさい話を重要書類片手に聞けるか。こっちにミスが出たらたまらない」
「それは失礼」
 回された書類は目を通してサインをしなければならない。輝の話はどうでもいい仕事を片手に聞く分には問題がないのだろう。
 華狩から伝言を聞いた、と言った後の感想が、先刻のシンプルな一言である。華狩が来たの一言だけでその理由まで察してしまうのだから、なかなか厄介な青年だ。
「お前はそこで迷ったんだな」
 輝はそこまで話していないというのに、全く自然な事として輝の行動まで言い当てるのだ。内面を見られることに抵抗を覚える性質の輝としては、本来レイアンのような人間は警戒すべき存在だ。不思議な事に彼と話して内面を見透かされてしまうのはあまり厭ではないから、こういった付き合い方が出来る。レイアン自身が他人の内面に興味を示さない性格であるのを輝は知っているし、何よりも彼はマリアの兄であるという事実が、輝から警戒心というものを遠ざけている。
 良くも悪くも、マリアがいなければ成り立たない関係だ。
「ええ。本当なら僕だけ話を聞いて帰してましたけど、華狩君の様子が少しおかしくて」
「様子が?」
「ええ。何か少し自分を追い詰める物言いが多かったですね。『輝さんに嘘をつかせるわけにはいかない』とか、『昨日の事は僕が説明しなきゃいけない』とか。面倒を引き起こして後は知らん振りっていうのが厭なのかな」
 サインをしようとしていたレイアンの手が止まった。
「駄目だと言ってあの場は帰しても、リフと顔を合わせる機会があればすぐに話していたでしょう。華狩君が一体何をどこまで話すのか、全く予想がつかなくて。下手に全部打ち明けられてしまうのも困るけど、まあ隠していても仕方のないことですしね」
「つまり、これを好機と見ることにしたのか」
「正確には、見ることにしようと思いますって所ですね」
「?」
「華狩君に喫茶室で待ってもらってます。どちらにしても彼にももう少し冷静になる時間が必要だろうし、リフも警戒してはっきり返答しませんでしたから。それに、会わせるべきだろうとは思うんですけど、どうにも僕一人じゃ判断できなくて。貴方の意見も聞いたほうがいいんじゃないかな、と」
 そこで、漸くレイアンはこちらを見た。彼はひどく不愉快そうな顔をしていた。
「医者としての見解と言う意味か?」
 分かっていてそんな事を訊いてくる。輝は笑って首を横に振った。
「いいえ。貴方の意見だと言ったでしょう」
「そんなものがどうして必要なんだ」
 レイアンは、人をよく見るわりに、他者の領域に踏み込む事は嫌う。特に輝の領域に関しては、出来る限りの線を引きたがっている節がある。だからこそ、輝はわざとはっきりとした言葉を選ぶ。
「僕一人では判断できないからです。今回の件で僕と全く同じ情報をもってるのは、貴方だけでしょう」
「……」
 これは嘘偽りのない真実だった。輝は迷っている。判断が出来ない。この件は上に知らせてはいないから、相談できる相手はレイアン以外にはいない。
 輝はレイアンが小さく溜息をつくのを聞いた。
「何故判断できないのか、そこからして分からない」
「そうですか?」
 レイアンが椅子を回し、こちらに体を向けた。
「好機だ、と俺は言った筈だ」
 彼の声は硬い。
「あの二人の正体が分かった以上、この均衡は長く続かない」
 ジャスティスの中心にかかわる存在が、手の内にある。もう数日前まで続けていた小競り合いは意味がない。
「こちらが動かせる人数を考えれば、迷う時間すら惜しいくらいだ」
「意外だな、貴方がそんな風に判断するとは」
「目を逸らすな。お前は俺に背中を押してくれと頼みに来たんだろう」
 嘘をつくな、とはレイアンは言わなかった。そう言われてしまえば輝は苦笑するより他にない。自分の判断そのものに対して不安があったのも本当だが、結果が読みきれない賭けに多少怯えていたのも事実だ。
 全ての結果が見えている賭けなどない。
「俺の用件だが」
 そう言えば、と輝は思い出す。輝がレイアンを訪ねたのではなく、レイアンが輝を呼び寄せたのだ。
 レイアンは机上の書類に目を戻した。それはただ目を逸らしただけのようにも見えた。目を逸らすな、と輝に告げたばかりなのだから、輝の気の所為かもしれない。
「二つある。まず、華狩の能力に関するデータを収集してくれ。『二人』の関係について知りたい」
 レイアンがそれをとても不本意そうに言ったので、輝は思わず笑いそうになった。
 華狩についてのデータは輝とレイアンで完全に共有している。彼の能力についても、第三者の目に分かる事実は全て把握している。それ以上の事となれば本人に訊くより他になく、そんな人の内面にかかわる話を聞きだすだけの話術をレイアンは持ち合わせていないのだ。
「華狩君と会ったんでしょう? もしかしてそれを訊きに?」
「診察だ」
 やたらと硬い声で否定が返って来た。どうやら本当に自分で訊こうとしたらしい。会話に関しては人並み以下だと自覚していない筈はないのに、それでも一応努力をしてみるところがレイアンらしい。
「それで、もう一つは?」
 笑いを堪えたまま、輝はそのまま何気ない調子で尋ねた。
 しかし、輝の顔を見ないままに呟かれた一言は、輝の予想の範疇を大きく超えていた。
「俺が話すのが、最善だろうな」
「…は?」
 聞き間違いでなければ、彼は他者の領域に大きく踏み込む意味合いの事を言った。輝だけではない、もっと多くの人間に関わる事になる可能性を、承知で言っているのか。
「均衡を崩すなら、俺が最善だろうと言った」
 保養施設の告知書類に名前を書きながら、レイアンははっきりとそう言った。ボールペンが滑るのか、常よりも筆跡が僅かに乱れている。それが分かるほど彼の筆跡を見慣れていた自分に、輝は意外な気分を覚えた。
「聞いているのか?」
 返事が出来ないでいる輝に、不機嫌そうな黒い瞳が向けられる。
「…聞いて、ますけど。…ドクター、自分が何をすると言ったか、分かってます?」
 不機嫌そうに細められた双眸が、マリアの拗ねた時の眼差しに似ている。やはり兄妹だ。
「分かっていないのはお前じゃないのか。俺があの姉弟と華狩に、全てを話すと言ってるんだ」
「何故ですか」
 これは貴方自身の問題じゃない。輝が言えずに飲み込んだ一言をやはり間違えずに汲み取って、レイアンは淀みなく答える。
「仕方がない。俺がお前達の主治医である以上、全く関わらずにいるのは無理だ。関わらざるを得ないのなら、一番面倒のない方法を選ぶ」
「それは嘘でしょう」
 彼が輝達の主治医である事は事実だ。それゆえある程度の接触があるのは仕方がない。
 しかし、レイアンの役目はあくまで医者としての診察や治療だ。それ以上は彼の仕事ではない。
「貴方は僕らが怪我をしたら治す。それだけでいいんです」
「意見を聞きに来ておいて、そんな事を言うのか」
「貴方がそんな事を言い出すとは思わなかったからです。分かってたら聞かなかった。貴方は僕らと関わるべきじゃない」
 彼はもう誰にも触れようとはしない。
 ずっとそうして生きていくのだと、誓った筈だ。それが彼の望みだ。
「マリアと約束したのは僕です。貴方は何も守らなくていい」
 マリアの名を出しても、レイアンは眉一つ動かさなかった。
「華狩は当事者だ。お前はこの件に関しては想像でしかものを語れない。栄羅は華狩に共感を覚えすぎている。…俺しかいないだろう」
 それが一番面倒の起きない選択肢を選んだ結果なのか。彼の説明に無理はなかったが、それでも輝は納得できない。
「想像するしかないのは、貴方も一緒でしょう」
 リアとリフ、それと華狩の間にある問題は、ただ政治思想の差異だけで語られるものではない。もっと単純で、複雑な問題がある。意見を求めたくせにそれ以上に近寄る事をさせたくなくて、輝は知らずに語気を強くする。
「僕は確かにそれを知らない。だけど、貴方も」
 彼にはマリアがいた。だが、それだけだ。
「貴方も、僕と変わらない」
 レイアンはもう一度、書類を上から下まで丁寧に確認した。そして、それを片手に立ち上がる。
「そうだ。だが、お前とは違う。俺は最善と最高を間違えているつもりはない」
 昔、マリアがまだ生きていた頃、レイアンが今と同じ様に強く輝の言葉を否定したことがあった。
 彼は不思議な響きの声で輝の言葉を否定する。声音はいつも通り抑揚が失われているが、その奥底にある感情だけが透けて見える。
「…そうですね」
 マリアを失って、レイアンは変わった。もう傷つきたくないのだろうと輝は思っていた。それは間違いではない筈だ。
「貴方がそうしてくれるなら、それが一番いいんだとは思います。貴方以外の、皆にとっては」
 だから任せます、とは言えない。
 レイアンは曖昧な輝の物言いを煩わしげに睨みつけた。
「いいか。マリアはもう死んだんだ。過去の話だ。今更変えようがないものをいつまでも憂いていられるか」
 レイアンは真実をいいながら、嘘をついている。
「お前は俺に何度同じ事を言わせるつもりだ。マリアは死んだ。お前が馬鹿正直に守ろうとしている約束を破った所で誰が何を言うわけでもない」
 だから忘れてしまえ、とレイアンは言う。そう言わずにはいられない彼の気持ちも分かる。
「本当に、いいんですか」
「構わない」
 そこで頷かれてしまえば納得するより他になく、それ以上の反論は出来なかった。受け入れるしかない。
「…分かりました。お願いします」
 マリアとの約束を破る事になる。それでも輝は頷いた。
「レイアン」
 二年の間ずっと避けていた呼び名が口をついて出た。
「……」
 返答はない。彼はもう、二年前の彼ではない。
「よろしくお願いします」
 何も言うべきではない、と思い直した。
 レイアンを苦しめるのは輝であり、マリアだ。レイアンは分かっていても何も言わない。
 二年間ずっと彼の優しさに甘えている。
 だから、せめて何も言うべきではない。

第三章 -2-
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