幸福 1
 朝が苦手だ。
 高校は通信制だから早く起きる必要はないけれど、同居中の兄が不規則な生活を嫌っている。
 八時半に鳴ったはずの時計が十時半を指しているのを、西はベッドの中でぼんやりと見つめていた。
「…あれぇ…?」
 カーテンの隙間から漏れた日の光が細い筋を床に刻み付けている。
「!」
 状況を理解した途端、西は着替えることも忘れ部屋を飛び出した。
「ごめん! ごめんお兄ちゃん!」
 叫びながら階段を駆け下りる。東は毎朝六時半に起きて西の分の朝食を用意しているのだ。声が聞こえたのか、その東が階段の下に顔を見せる。
「お前そんな走るとまた階段落ちるぞ」
「あ、お兄ちゃ…うわ!」
 残り五段ほどを一気に駆け下りようとした時、爪先に階段の滑り止めが引っかかった。
 落ちる時に、東が最早驚くこともせず呆れ顔になったのが分かった。
 それについて感想を抱くより先に、派手な音と共に強かに肩を床にぶつけた。それを支えようと咄嗟に出した右手首に、嫌な痛みと音が走った。
「…ッたぁ…」
「お前ね」
 階段から落ちたままの姿勢の西に、しゃがみこんだ東が言った。
「滑り止めなけりゃないで滑って転ぶし、あればあったで躓いて転んで、じゃあ一体どうすりゃいいんだ?」
 顔だけを東に向けて、西は笑った。
「僕も分かんない」
「へらへらしてんなよ馬鹿。いつも言ってんだろ。階段駆け下りんの止めろ」
「だって、お兄ちゃんのご飯…」
 それを遮るように、東は溜息をついた。
「明け方に帰って来て、七時ごろようやく眠ったやつが早起きしようなんて思ってんじゃねぇよ」
「ごめんなさい」
「怒ってねぇって。ほら」
「ありが…痛ッ!」
 東が差し出した手を掴もうとすると、手首から肩に突き抜けるような痛みが走った。
「西?」
「お兄ちゃん」
 目に涙をため、西は訴えた。
「右手、痛い…」


「…あ、もしもし? お兄ちゃん? うん、西。あのね、何か凄く捻っただけだって。骨に異常はないってさ」
 病院のロビーは昼間でも人が多い。
 そわそわと辺りを見回しながら、西は早口で受話器に向かって言った。
「じゃあこれから帰るね。え? あ、分かった。卵と、牛乳? うん。…うん。分かった。じゃあ」
 受話器を下ろすと、西は溜息をついた。
 病院は会いやすいのだ。人が死んでいく場所である以上、それは避けられない。
 今日はまだ、会っていない。
(今のうちに帰ろう…)
 西は小走りに出口に向かう。出口の自動ドアに自分の姿が映った。
「…あ」
 西の瞳が凍りついた。
 背後に、男が立っている。
 血まみれの、ひどく青ざめた顔色の男。生きているならばぼんやりとロビーなどを歩いていられない風体の男だ。
 反射的に振り返った。
 目が合う。男は、こちらを見て何かを言おうとした。
(まずい)
 咄嗟にそう思ったが、体が動かない。何の準備もしないままに目を合わせてしまった所為だ。
 途端に意識が閉塞に向かうのが分かる。東をあまり歩かせたくなくて一人で行くと言い張ったのに、結局東に迷惑をかけてしまいそうだ。
「去ね」
 バランスを崩した西の状態を、誰かが支えた。
 既に失神寸前であった意識が、僅かに明瞭になる。嫌な汗が頬を伝って落ちた。
 必死に顔を上げると、栗色の髪が見えた。腕の感じから、男であることは分かった。
「平気か?」
 口を動かそうとしたが、動かない。
 男はなおもこちらへ向かってくる。
「邪魔やねん、自分」
 栗色の髪の青年は、そう呟いた。
 それだけで、男は消滅した。
「取り敢えず、ここ出るで」
 背負われるところまでは何とか保っていた意識は、病院を出る頃には既になくなっていた。


 額にひやりとした何かが乗っている。西は重い瞼を上げた。
「あれ?」
 視界はまだ薄暗い。けれど、肌に触れる日の暖かさは間違いなく今がまだ昼間であることを伝えている。
「お、気付いたか」
 先刻の青年の声がした。
「暫くそのまんまにしとき。ここ外やさかい、目ェ眩むとあかんやろ」
 西は目を覆っているものに触れた。
 手触りから、西の持っていたハンカチを濡らしたのだと気付いた。
「君の鞄、漁らせてもろてん。ハンカチ借りたで」
「あ、そうですか…」
 陽射しが心地いい。毛布に包まれているようだ。
「あの、ありがとうございました」
「ええよ。ちゃんと御礼忘れへんで、ええ子やな」
「…はぁ」
 視界が僅かに明るさを取り戻した。畳んであったハンカチを捲られたのだと分かった。
 慣れている。そう思う。
「君、名前何なん?」
「城海西です」
「西君か。あ、俺はニエや。呼び捨てでもええよ」
「…ニエさん? どんな字なんですか?」
「さぁなぁ」
 間延びした声は、普通の事のように言った。
「俺にもわからへんねん。記憶喪失やから」
 ハンカチが取られた。
 西は、初めてニエの顔を見た。
 助けられた時に見たのは、彼の髪だろうか。瞳だろうか。
 抜けるような白い肌をしている。それに栗色の髪と瞳。
「目、平気か?」
「あ、はい」
 西は起き上がった。恥ずかしいことに、ニエに膝枕をさせてしまっていた。
「そらよかった」
 にこりと笑ったニエの顔は、無造作に伸ばされた髪で隠されている。西の角度からだからこそ、ニエの顔が見えたのだった。
「あないな奴らに会うてもうた時にはな、日の光が一番やねん。覚えとき」
 ニエは満足そうに頷きながら言った。
 よく知っている顔だ。西は不意にそう思う。この笑顔と、懐かしさに似た切なさを、西はよく知っていた。過去になった者を見たときの気持ち。
 魂以外の何も持たない者の、それでも彼らが無くさずにいた笑顔を見たときの気持ちだ。
「…ニエさん、もしかして」
「うん、多分死んどる」
 ニエはあっさり頷いた。
「名前とかな、思い出されへんねん。ニエっちゅう呼ばれ方しとったんは思い出されてんけどな、どこの誰かはさっぱりや」
「なんだろう。死亡時のショックかなぁ? …ちょっと、いいですか?」
 西はそっとニエの額に手を触れさせた。
 淡い発光に指先が包まれる。空気が白く光っていた。
「目、閉じてみてください」
 言われるままにニエは目を閉じたが、それ以上の反応はない。
 たっぷり一分そうしてから、西は手を離した。
「何も、見えなかったですか?」
「うーん、目の前がこう、白くはなんねんけどな」
「そうですか…」
 西は手を一振りして光を消した。白い光が、残滓を描いて消える。
 目を開けたニエは、その様子を見つめていた。
「何やえらい綺麗やな」
 感心したように呟く。
「あの……」
「ん?」
「ニエさんって、呼んでもいいですか?」
 尋ねたのは、先刻名前を教えてくれた時の彼の声の底に僅かながらも嫌悪の情を感じたからだ。
「そら、それ以外に呼び様あらへんやん。構へんよ」
 感じのいい笑顔だ。
「その…もしかして、さっきの人。病院であった、あの人…」
 そんなニエにどう尋ねればいいか分からずに、西は歯切れ悪く尋ねた。
 どういう死に方をしたのか分からないが、今も確かに苦しんでいた。西に危害を加えようとしたわけではない。ただ、助けを求めようと必死だった。それだけだ。
「うん」
 ニエも曖昧に頷く。彼は、自分がしたことの意味をよく知っている。
「消えてもうたやろな」
「やっぱり…」
 もう、あの男はどこにもいない。魂の一欠片すら、残っていない。苦しみも癒されぬまま、消えていった。
 会ったのが病院でなければ救えたのに、と考えること自体が逃げに思われて、西の胸が痛む。
 弔師は、死者の救済を生者の救済より優先しなければならない。
「すまんな」
 何時の間にか、ニエの顔からは笑みが消えていた。
「そんな!」
 西は慌てて首を振る。自分の後悔で彼にそんな顔をさせるのは、嫌だ。
「僕が悪いんです。僕が、ちゃんと念を防げないから。ニエさんは、僕を守ってくれたんです」
「……」
 ニエは何も言わなかった。何を言えばいいのか、分からないのだろうと西は思った。
 代わりに彼の大きな掌が頭を撫でてくれた。
(あれ?)
 その刹那、西は既視感に襲われた。
 ニエの掌を知っている。
 不意に強い風が吹く。ニエの顔を隠す長い前髪が巻き上げられ、咄嗟にニエは掌で髪を押さえた。
 そうだ。先刻も見覚えがあると思った、思った。その横顔も誰かに似ている。今まで救ってきた、あるいは救うことの適わなかった者たちでなく、もっとはっきりした誰かに。
(…?)
 誰だろう、と西は首をかしげる。よく知っている誰かだ。
 しかし、それを思い出すより先にニエが立ち上がった。
「もうちょい、俺に付き合うてもろてもええか?」
「ええ、勿論」
「せやったら移動せェへん?」
 ニエが顔を露にさせる風を嫌って言っていることは分かった。
「かっこいいのに」
 ぽつんと呟く。
「え?」
 ニエは、まるで珍しい動物を見るような目で西を見た。
「俺の顔、恐ないんか?」
「勿論。どうして恐いんですか? 貴方は悪い人じゃないのに」
 そう言うと、ニエは再び笑った。
「どこか、行きたいところないですか? あんまり遠くは無理だけど、近いところなら僕どこでも案内します」
「行きたい所?」
「ないですか?」
「せやなぁ…」
 ニエは腕組みをした。そのまま考え込んでしまったので、西は暫く何も言わずに待つ。
 砂場に目をやる。あの親子は、幸せかなとそんなことを思う。
 五分ほど経った所で、ようやくニエは口を開いた。
「思いつかへんなぁ。せや、ほなら君の好きな所、連れてってんか?」
「僕の好きな所ですか?」
 意外な要求だった。今度は、西が腕を組む。
(僕の好きな所…)
 墓が好きだというのは、墓を持たないニエに失礼だと思う。それ以前の問題として、墓を持つ者達は正規の手続きを踏んでいない者が墓場に入るのを嫌う。先日の親子は、地の繋がりががあったから受け入れられたのだ。
 公園も好きだが、ニエはここを動きたいのだ。
 家も好きだったが、家に連れて行けば玄関に一歩足を踏み入れただけでニエは消えてなくなってしまう。結界を張ってある。そうしなければ始終低級霊に付きまとわれることになってしまうのだ。
(…となると、あそこくらいしかないんだけど)
「外でもいいですか? 人は殆ど来ないと思うんだけど…」
「構へんよ」
 ニエは快く言ってくれた。


「せや」
 住宅街を歩く途中、ニエが口を開いた。
 人差し指を額に当てる。
「自分、さっき俺に何かしたやんか。あれ、何やったん?」
「ああ」
 西は微笑んだ。
「大丈夫です。あれ、別に何か悪いことしたわけじゃないんです。僕、無くした記憶を取り戻すこともできるから、それを試しただけで…」
「自分そないな事も出来るんか」
「僕、弔師なんです」
 西がそう告げた途端、ニエの足が止まった。
「ニエさん?」
 勢いで数歩進んでしまってから、西も足を止める。
 振り返ると、ニエははっきりとその白い顔に恐怖を浮かべていた。
(?)
 あまり見ない反応だ。
「ニ…」
「触んな!」
 差し伸べた掌が、鋭い声と共に見えない力で払われる。
 浅く西の手に傷ができた。
「…あ」
 浮かび上がった紅い筋に、ニエは我に返ったようだった。
「すまん。悪かった。そないな、俺、怪我させるつもりなんか」
 動揺を隠せないまま、ニエは頭を下げた。
 肉体を持たない者は、思いだけで人を傷つけることもある。それを知っている西は、首を振った。
「大丈夫です。慣れてるから」
 それでも、手を差し伸べることはやめたくないと思っている。西は微笑んで見せた。傷ついた掌は、さりげなく体の陰に隠す。
「気にしないで。それより、ニエさん、弔師の事知ってるんですか?」
 隠された掌から目を離せないながらも、ニエは曖昧に頷いた。
「そないな気は…する。多分、知っとる。…ええ感情は、持ってへんようやけど」
「ええ…」
 それは、ニエの念に触れればわかることだった。傷を握り緊めるように手を握る。傷跡には、微かにニエの念の残滓がある。
(これは、拒否…?)
 違う。
 拒否ではない。似ているけれど、違う。
(…そうだ)
 あれだ。
「西君?」
「あ、ごめんなさい。大丈夫です。行きましょう、あと少しだから」
 ニエの瞳は、不安気に揺れている。
 いつもなら傷つけられても拒否されても差し出せる筈の掌が、差し出せなかった。
 東の顔が浮かぶ。ニエは、自分と同じ思いを死後も尚持っている。
 東の力が、必要となるかもしれない。
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