大きく伸びをしたニエが気持ち様さそうで、西はほっと息をついた。 腰掛けた石段はひやりとしていて、西の気持ちを落ち着かせる。ニエも、きっとそうなのだろうと思った。 「静かやな」 「ここは、街の外れだから」 寂れた神社だ。鳥のさえずりすらも大きく聞こえる。神主ですら最早名前のみの存在で、そう遠くない未来にここは無くなってしまうのだろう。 しかし、それでもここには生者の念も死者の念も清める力が未だ確かに在った。 それでいて、誰も拒むことはない。引き入れることも、追う事もない。 それがいい。 「ええ場所や」 ニエも同じ様に感じている。 「何百段も石段上らされるけどな」 悪戯っぽく付け足されて、西は笑った。 「この街、結構広いねんな」 石段の最上段からは、街のほぼ全景が眼下に見渡せる。広い街。人が生きている。 だからこそ、西や東にとっては生き難い土地。 「僕も、ここ初めて来たときびっくりしました。こんな広い町に暮らしてると思わなかった」 「ようあるこっちゃな。別の角度から見りゃ何やこないなもんなんかと思うねん。せやけどそないして高みの見物決め込むばっかでもあかんしな。難しいな」 「難しいです」 西は頷いた。 「せや」 胡座をかいたニエは、にこりと笑った。 「?」 「弔師の事、話してくれへん?」 「え? …でも」 先刻のニエの様子を思い出せば、それは当然躊躇われた。何よりニエを傷つけることになってしまうのが嫌だ。 「平気やし」 ニエの言葉を裏付けるように、ニエから感じられる波動は穏やかで安定しているけれど。 「…弔師って言うのは」 『弔師』と口にした途端、ニエの瞳が僅かに揺れた。彼の瞳は色素が弱い。その分、よく分かった。 「弔師って言うのは、魂を癒す仕事の事を言うんです。生者より死者が大事じゃなきゃいけない。根本に、死者の魂の救済を据えた仕事」 「…うん」 ニエは眉根を寄せている。何かを思い出そうとしているのかもしれない。 「死者の魂の救済が結果として生者を救うこともあるけど、それはあくまで死者のついでなんです。生者に取り付いた魂は、それじゃ魂がかわいそうだから救うんです。生者のためじゃない。弔師は、死者を救う仕事だから」 慎重に、言葉を選んで西は話した。 話しながら、探す。自分の話の意図を。 この場所なら自分の伝えたいことを伝えられそうで、ニエに伝えたいことを探している。 「僕達は、死者の魂の救済の為ならいつだって死ねる覚悟が必要なんです。他のシャーマンが生者の為に死ぬように」 「…西君も、覚悟しとるんか? 何で?」 「それは」 生まれたのが弔師の家だったから。 それもある。けれどそれだけではない。 「…お兄ちゃんを一人には、できないから…」 「兄ちゃん?」 今朝、病院に一人で行くと言い張った時の東の顔を思い出した。 「それで、ニエさん」 「ん?」 「多分、…多分、貴方は弔師に関係していた人なんだと思うんです」 「せやな」 ニエは言葉少なに頷いた。 「それで、でも貴方が生前どこで何をしていた人であろうと、貴方はもう亡くなっていて、体を持ってないから、僕は貴方を救わなきゃいけない」 弔師は彷徨う死者を見つけてそのままにしておくことは許されない。 だからこそ、未だ家にも帰らずに西はニエの相手をしている。彼にとっての『救い』が何かわからないから。 「救わなきゃいけない」 もう一度、西は繰り返す。 そして、大きく息を吸ってから首を横に振った。 「…でも、出来ないかも知れない」 ニエは不思議なものを見るように西を見た。 その視線が、痛い。 言葉が足りないことに西は気付いた。慌てて口を開く。 「ごめんなさい。その」 「ええよ」 それを遮ったのは、柔らかく頭を撫でてくれた掌。 そして優しい声と、瞳。 「ええよ、別に。元から救うてもらおうやなんて思てへんもん」 別に拗ねとるわけちゃうで、とニエは気軽に言う。 「せやな、今俺ん中にある気持ちの話、したるわ。俺は弔師の仕事の事も俺自身との関係も、話されへんからな。取り敢えず、弔師何や気に喰わんなぁ、嫌やなぁて気持ちが、まぁあるにはある」 西はニエの横顔を眺める。 ニエが、世の中の全てを知っているような顔をしていると思った。 「それとなぁ、西君が俺を救いたい、救わなあかん思うとる気持ちも分かる。ちゅうかこれは伝わる、やな。後は今西君が話してくれたさかい、弔師の目ェから見ても、俺は救わなあかん魂っちゅう奴やろとも思う。それで行くと、やな。俺の事救われへん言うた君は何やねん弔師ちゃうんか、ちゅう話になるやろ。霊救うなあかん弔師が、霊救うの嫌や言うてるんや。弔師嫌いとしては腹立つ筈やんか」 ニエの言葉は、一つ一つが胸に刺さる。 全くその通りだ。 「せやけどな、正味の話、全然そないな風に思われへんねん。心のどっかでそらそうやろなぁて思うとる。西君の気持ち、どっかで分かってんねやな」 ニエは自分の膝を抱えた。自分の胸の痛みに蓋をする、そんな仕草に見えた。 西は、ニエに影がないことに初めて気付いた。肉体を持たないのならそれが当たり前である筈なのに、少しだけ違和感を覚える。 「もし俺が弔師に関係しとるとしたら、俺もしかして西君のご先祖様やったりするかもな」 「そうかも、しれないです。確か僕の家は曽祖父の代まで京都にいたそうですから。何かあったらしくて東京に出てきたそうなんです。何があったのかは一族の中でもタブーになってるらしくて、僕も知らないんですけど」 「へぇ。せやったら俺、西君のひい祖父ちゃんかな」 「かも、しれないです」 「そっか。俺の曾孫か」 ニエは楽しそうに呟いて、少し喉の奥で笑い声を立てた。 「ええな、それ。もし俺が君の直系の先祖やなくても、どっかで俺の何かと共通したもん持ってんねやろ?」 西は、曖昧に頷いた。 ニエのその様子が、どこか物悲しく見えた。 こうして魂が残っていることからして、少なくともニエが幸福な死に方をしたのでないことは明らかなのだ。きちんと弔われていない証拠だ。 自分の家が生者を大事にすることに長けていないのは、西もよく分かっていた。 「…暫く寝てもええかな」 「え?」 唐突にニエは呟いた。基本的に前触れと言うものに欠けた人だな、と西は内心で呟く。 「ここ気持ちええんやもん」 「え、ええ。構わないですけど」 「うん、お休み。飽きたら起こしてええよ」 言うが早いか、ニエは膝頭に頭を乗せて眠りこんでしまった。 遠くで何かの鳥が鳴いている。 西は、そっとニエの顔を覗き込む。 (…ほんとに寝てる) 死者が眠るのを、初めて見た。普段会う死者は墓の中で眠っている。そして墓を持たず彷徨っている者達は、眠らない。基本的に死者には死んでいるのだから眠りは必要ないのだ。 彼らが必要としているのは静けさで、墓を持つ死者が『眠る』という事は、墓の中でその静けさに浸る時間の事をさしているのではないかと西は思っている。 (もしかして、これって) 時折、正確に言えば大体の場合は忘れてしまっているのだが、西はふと思った。 当然死者は普通の人間には見えていない。 ただ西が一人で座っているように見えるのだ。 (すっごい間抜けな光景かも…) 西は背中を丸めた。 肩が寒くて、目が覚めた。 「おはようさん」 気軽な声が聞こえた。頭上から。 「あ…? え? あれ? あ!」 「もうちょい待っても起きへんかったら起こそ思てたとこや」 西は起き上がった。髪が寝癖で酷い事になっている。 「ごめんなさい! 膝枕なんかさせちゃって! うわ、どうしよう」 「別にええよ」 気付いて見れば、辺りはすっかり日が暮れていた。寒いわけだと西は肩を震わせた。 ニエが、西の寝癖を直す。 「帰らへんでええのん?」 「あ! お兄ちゃんに電話しなきゃ!」 「うん」 ニエが穏やかに言った。 「西君、それよかもう帰り」 「…え?」 笑って、ニエは言うけれど。 「もうええねん。一日変な事に付き合わせてもうて、悪かったな」 そのニエの笑顔は、それは、今まで見た彼のどの笑顔よりも西を寂しくさせた。 ニエは、諦めたのだ。 「ニエさん…?」 「ずっと、君の寝顔見ながら考えとった。君の気持ち、俺なんで分かるんやろて考えて、ごっつい少しやけど、思い出してん」 ニエは左胸に手を当てた。 「ここにな、同じ気持ち、あんねん。死者より大事なものある言う気持ち、俺の中にあるねん。今でも」 苦しそうな笑い声。 「そんなんあかんのにな。罪やもんなぁ、これ」 そして、笑いながら、苦しそうに笑いながら、両手で顔を覆った。 幾度となく西の頭を撫でてくれた、その手で涙を隠す為に。 「罪やもんなぁ…?」 小さく響く、ニエの呼吸。 呼吸をしなければ、苦しいのだ。悲しい気持ちに胸が痛んで、泣き声を必死で押し殺さなければならないことも、あるのだ。 死んでいても。 ニエは、死んでも幸福ではない。 (…僕、ニエさん助けなきゃ) ニエは、もう死んでいるから。 (僕は弔師だ) 弔師だ。全ての生ある者よりも死者の幸福を願い、そのためならば身を投げ出すことも厭わない。 幼い頃からそう躾けられてきた。 西は立ち上がって、ニエに手を差し伸べた。 「ニエさん、ここにいちゃ駄目なんだ。僕の好きな所なんか、ニエさんには意味がない」 「え?」 「探しに行きましょう。ニエさんの幸せになれる場所。きっとどこかにある。なくても僕が作る」 「西君、せやけど」 「僕が作ります。ニエさんが幸せになれる場所。ニエさんの好きな場所。僕には作れます。僕は弔師だから」 心臓が早鐘を打っていた。こんなことを言うのは、慣れていない。 何も考えず、ただ救いたいと思ったのは生まれて初めてだった。 「ニエさんが幸せになれる場所を、僕が作ります」 ニエは目を見開いている。 差し伸べられた掌と、西を交互に見つめて。 「…あ」 そして、掠れた声で呟いた。 「俺」 優しい風が、ニエの髪を揺らした。 露になった左目から、零れた一雫の涙。 「…俺」 ニエが、何を見ているのか西には分からない。ただ、彼が西の向こうにある何かを見つめていることだけは確かだった。 「俺、…贄、やったんや…」 贄と呼ばれていた。 ニエは、そう告げた。 「目を、閉じて」 西は言いながら、指先の白い光を、少し強めた。 ここは集中しやすい磁場だ。多少の無理は利く。それは、ニエにとっても同じ事だ。 石段は夜の空気に冷え切っている。それが却って気持ちをすっきりとさせた。 西は、注意深くニエの額に触れた。 (…ある) 手応えが。微かな、手応えが在った。 「見えますか?」 「…何やろう。誰かが、言うとる。何か、言うとる」 「焦らないで」 ニエの眉間に皺が寄るのを優しく宥めた。 「ふう…封じる、て。東京…誰も来ェへんやろ」 (東京?) 「そないな事…せんで」 ええのに、とニエは呟いた。封じられた記憶の底にある、誰かに語りかけている。 「そないなことせんでええ。消してくれたらええ。そんなん、俺望んでへん。なぁ、に…っ!」 突然、西の掌をニエが払った。 不意に集中を断ち切られ、西は酷い眩暈に襲われる。 「っ!」 視界が揺らぐ。不安定にバランスを崩し、石段から転げ落ちかける。 「!」 それを、西の左腕をつかむ事でニエが支えた。 「…ッ、は…ッ」 喉元を押さえ、荒い呼吸を繰り返しながら。 「だ、大丈夫ですか?」 一瞬の眩暈は過ぎ去っている。 体勢を立て直し、うずくまるニエの背に西は掌を当てた。 (…これは) 『拒否』だ。ニエではない、他の誰かの意思がニエの体に干渉している。 「…俺、なんや言うとったか」 「誰かが、東京には誰も来ないから、封じるって。それから、そんなことしなくていい、そんなことは望んでないって。あと、誰かの名前、呼びかけてました。『に』で始まる、誰か」 「そうか…」 ニエは、瞳を閉じた。 ニエがそれに何を思ったか、西は想像する事も出来ない。 「ニエさん…?」 彼の名前を呼ぶことすら、抵抗があった。 彼が構わずに呼んでくれていいというからそうしている。けれど、呼びにくかった。 「少し、思い出した」 「どんなことを…?」 「同じようなこと、前にも言われてん。さっき、西君が俺に言うてくれたこと。俺の場所作ったる言われて、そないな事せんでええ思た」 「え…」 「そいつ、俺よかずっと辛そうな顔しとんねん。ずっと、俺なんかよりずっと、居場所欲しい言うてんねん。俺は、それ知っとる」 ニエの言葉は時制を無視している。 彼にとって、現在は間違いなく現在で、けれど西にとっての過去も現在なのだ。 ニエの声を、言葉を聞いているのは、苦しい。 「ニエさん」 何を続けたらいいかも分からず、ただ西はニエの名を呼んだ。手を握れば、暖かいのに。 「君悲しませる為に言うたつもりなかってんけどな。すまん」 「いいんです」 西は首を振る。 「違うんです」 ただ、ニエにこれ以上思い出させたくなかった。 「俺なぁ」 西の考えを読んだかのようにニエは言う。 「俺なぁ、この目ェとか髪とか、とにかく人に見られるの嫌やねん。何でかっちゅうのは思い出されへんねんけどな。多分俺の中には、俺が傷つくような思い出もあんのやろ。それは嫌や、傷つきとうない」 僅かに力を込めて、西の手が握り返された。 「せやけど、俺が思い出してやらへんかったら可哀想やないか。あいつ。自分の事でもあらへんのに苦しんでくれた、誰かに悪いやんか」 「けど」 けれど、彼の記憶を封じているのはその誰かかも知れないのだ。 それはニエを守りたいという気持ちの表れで、ニエが記憶を取り戻すことはその気持ちを無にすることかもしれない。 「…わかっとるよ」 ニエは、頷く。 ニエも分かっている。 西以上に、よく分かっている。 「せやけど、教えてくれへん?」 ニエの瞳が、真っ直ぐこちらを向いた。 初めて、西は真っ向からニエの瞳を見た。 「あるやろ。魂やけど、救われへん魂が。弔師もどうにも出来へん、端ッから努力せんでも許される、そんな魂が、あるやろ」 「……」 『ニエ』の名の意味を知った時、真っ先に思い浮かべた名が二つある。 一つは、東の名。 「あるやろ?」 「…あります」 魂を封じることが出来るほどの人間が近くにいて、それでも尚ニエを救うことが出来なかったと言うのなら。 「一つだけ。弔師には、一つだけ例外が与えられるんです。死んだままじゃどうしても幸せになれないけど、どうしても救いたいと、何を犠牲にしても救いたいと思った魂を救う手段が、一つだけ」 「何や?」 「弔師の近しい人を一人、選ぶんです。その人に、罪を犯させる」 「罪?」 「その大罪を犯して死んだ者は、弔師にも救えないと始めから決まっているんです」 幸せになれない死者を救う手段は、一つだけ。 もう一度、肉体を与えること。 誰かが肉体を譲ること。 「…反魂の術があるんです。反魂は禁忌だから、それを犯して死んだ魂は、弔師も救えない」 「消滅させる言うことか?」 西は頷いた。 「…『鍵』と、僕らは呼んでいます」 短く西が言った途端、空気が爆発した。 吹き飛ばされる、その一瞬に西は見た。 ニエが怯えきった顔で絶叫する、その様を。 そして知る。ニエは。 (…贄だ…) |
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