「こんばんわぁ…」 真夜中の墓場に入り込むには勇気がいる。 西は明かり一つない墓場をきょろきょろと見回した。 「誰も…いない…よね」 それでも背を縮めて歩く。辺りを警戒する瞳は怯えている。 やがて西は、墓場の隅にある小さな墓を見つけた。 「あれかな」 小走りに駆け寄る。もう何年も手入れのされていない粗末な墓石の前に西はしゃがみこんだ。 「こんばんは。あの、松野しず江ちゃんのお母さん、いらっしゃいますか?」 西の背後で、枯れ木を踏む音が微かに響いた。 「私ですけれど」 「わぁ!」 西が大声をあげた途端、墓場の至る所にそれまでいなかった人間が現れた。全員が西を睨みつけている。西は慌てて頭を下げた。 「ごめんなさい、すいません! 折角お休みになってたのに起こしちゃって! ごめんなさい、静かにします! しますから、この方と話をさせてください」 答える声はない。西は目に涙を溜めて墓場の住人達を見回している。 「大丈夫ですよ」 優しい声がした。 「皆さん貴方に悪気がない事はお分かりですわ。ただ少しばかり驚かれただけです。なんだか怖いお顔の方もいらっしゃいますけど、そういうお顔なんです」 西は振り返る。淡い水色の着物を着た女性が微笑んでいた。 「ね、だから笑ってくださいな」 「…はい」 目を手で乱暴にこすり、西は笑った。 「初めまして。僕、弔師の城海西です」 「まあ、ご丁寧に。松野環です」 環は深々と頭を下げた。優雅なその動きに西は一瞬目を奪われる。 「なにか?」 「あ、いえ。なんでもないです」 辺りの闇のお陰で顔が赤い事は気付かれずに済んだ。不思議そうに首をかしげながらも、環はそれ以上追及しなかった。 「ところで、弔師さん…でしたかしら? どんなご職業でいらっしゃるの?」 西は頭を掻く。 「うーん…肉体をお持ちにならない方専門の何でも屋…です」 「何でも屋?」 「兄の言う所に寄れば」 「面白いお兄さまお持ちなのねぇ。私たちに関わるならあなたのお家も由緒あるお家なんでしょう?」 環は楽しそうに笑った。西はその様子を見て、僅かに眉をひそめる。 「はぁ、多分」 「ふふ、貴方も貴方なのね。ご自分のお家の歴史にあまり興味がないなんて」 環は更に楽しそうに笑った。西はしばらく顔を曇らせていたが、突然小さく呟いた。 「……あ、もしかして」 西は困りきった顔で環を見つめる。そしておずおずと口を開いた。 「…あの…、もしかして、しず江ちゃんはこちらに住んでらっしゃるわけではないんですか?」 「しず江が?」 西は頷いた。 環は首を振る。 「ここに住んでるも何も、しず江はまだ生きてますわ。もう六十ですから、随分なお婆ちゃんになってしまっているでしょうけれど」 環は娘の老いた姿を思い浮かべ、幸福そうだった。 「私、環を焼夷弾から庇って死んだんですもの」 「……やっぱり」 俯いた西の声に環は微笑むことを止めた。 西の声は震えていた。 「…松野さん、しず江ちゃんは貴方が亡くなった半年後に亡くなってます」 「え…?」 「貴方の旦那さんも戦地で亡くなってて、しず江ちゃんは遠い親戚のお家に預けられたんです。そこで酷い虐待を受けて…」 「しず江…殺されたんですか?」 西は唇を噛み締めた。その澄んだ瞳から零れ落ちた涙が、闇の中で何故か煌いて落ちた。 「ようやく分かりました。どうしてあんな所にしず江ちゃんが一人きりでいるのかも、お母さんが来てくれないと泣いていたわけも。きっと戦後の混乱に紛れて遺体の場所も分からないんでしょう。きちんとした供養もされず、帰るべき家の場所も分からないんです」 「しず江、どこにいるんですか」 「この先の公園に。貴方と同じ位の年齢の方を見ては、声をかけています。でもその方々にはしず江ちゃんの声は届かなくて、とても寂しがってるんです。存在を主張するだけの力もなくて、必死におぼろげな記憶を頼りにここまで戻ってきたんでしょう」 西は手を差し出した。 「僕、今もしず江ちゃんの声が聞こえてるんです。その声聞いてると、僕も涙が出てくるんです。だから、一緒に来てください」 「城海さん…」 環は両手で西の手を掴んだ。そして頭を深く下げ、蚊の泣くような声で言った。 「私は、行けません…。私は戦中ながらも幸運にもきちんと弔われてここに住んでいるのです。この場をもう動く事はできないんです…。動けるのなら、今すぐにでも飛んでいくのに…」 環は手を解くと、地面に額を擦りつけて土下座した。 「お願いします、お願いです。娘を助けてください、お願いします」 「松野さん、やめてください」 西はしゃがみこみ、環の顔をあげさせた。 零れる涙を止められないまま、微笑んで見せる。 「僕、弔師です。身体を持たない方々を救う為にいるんです。その為に僕は術を使う。この世界には色んなシャーマンがいるけれど、肉体を持たない方を助ける為にしか術を使わないのは弔師だけです。僕は、貴方としず江ちゃんを助けるために術を使います。それが、この手」 環が目を瞬かせた。 西の白い掌をじっと見る。 「僕は貴方に移動の許可を与えます。僕に触れていれば動けます」 環は、躊躇いがちに西の掌に自らのそれを重ねた。 「行きましょう」 西は環を助け起こし、迷いのない足取りで歩き出した。 環はきょろきょろと辺りを見回した。現代の町並みを見るのは初めてだ。 「本当に、動けるんですね」 「僕の手を離さないでくださいね。じゃないとお墓に引き戻されちゃうから」 「ええ」 左手で環の手を引いている西は、時折右手で目を擦る。涙が未だ止まらないのだ。 環が眉根を寄せた。 「大丈夫ですか?」 「ええ、すいません。僕物凄く念に共鳴しやすいんです。我慢してたんですけど」 「まぁ…。じゃあ大変でいらしたでしょう? 私を訪ねてらしたとき」 「いえ、ちゃんと弔われた方の念は形を整えられてますから、防げるんです。でも…」 「しず江の念は…」 西はもう一度涙をぬぐった。 「どうにも防げなくて。形が定まらないので。しず江ちゃん、よほど辛い思いしたんですね…」 言葉を切ると、西は立ち止まった。小さな公園が彼の目の前にあった。 「今日は砂場にいますね」 「え?」 環は目を凝らす。しかし砂場には誰もいなかった。 「整えられていない念は掴みにくいから、例え同じ肉体を持たないもの同士でも見えない事はよくあるんです。僕はたまたまそういう体質だから見えるだけで」 環は西に手を引かれ公園に入った。 西は迷わず砂場の前に立つ。そしてそこに落ちていた小石を環に渡した。 「これ、持っててください。それを媒介に術を使いますから、もう手を離しても大丈夫ですよ」 何の変哲もない小石が環の手に渡ったのを確認すると、西はするりと手を抜いた。 あまりに前触れなく手を離された所為で、環は思わず目を閉じた。しかし、墓から離れすぎた時の引き戻される感覚はいつまでたっても訪れなかった。 「しず江ちゃん、こんばんは」 代りに西の穏やかな声がした。 環は目をあけた。しゃがみこんでいた西が、何もない場所に向かい話し掛けていた。 「ごめんね、遅くなって。お母さん、連れてきたよ」 強い風が吹いた。西の頬に小さな傷ができた。 西は眉一つ動かさず、手を差し出した。 「いるよ。ここにいるんだ。ただ、君がもう少し落ち着かないとしず江ちゃんもお母さんもお互いに姿が見えないんだ。僕が見えるようにしてあげるから」 「城海さん!」 突然西の掌に一本の傷が疾った。西の手を伝った地が、砂を黒く染める。 「もし君にお母さんが見えなかったら、僕が死んであげる。一緒にいてあげるよ」 西は傷に目を止める事もなく、優しく囁く。真摯な瞳で語る。 彼は術が失敗したならば本当に死ぬのだろうと環は思った。 「しず江ちゃん、おいで」 「…さい…」 幼い声が聞こえた。 環が息を呑む。西の掌の上に、小さな傷だらけの掌が見えた。 「ごめんなさい、痛くしてごめんなさい」 泣きじゃくる子供。頬が酷くはれ上がり、顔中に痣を作ってはいるけれど。 「しず江…」 見覚えのある、懐かしい顔だった。 「おかあさぁん」 しず江が抱きついてきた。環は小さな身体を抱きしめた。しず江が肩に顔を埋める。 「お母さんから離れないでね。ちゃんとお墓に戻るまで、ずっと手を繋いでてね」 しず江の後ろで、西が満足げに笑っていた。 「ありがとう、お兄ちゃん」 しず江が再び顔をあげたとき、もうそこに傷はなかった。 「すごいですね、お母さんて」 驚く環に西は言う。 「抱きしめてるだけで子供の傷を癒せるんですから」 「…ええ」 西の涙は止まっていた。 その代わりのように、環の瞳から涙が溢れしばらく環はしず江を抱いたまま泣いた。 薄暗い墓場に戻ってくると、西はしず江の頭を撫でて言った。 「これからはお母さんとずっと一緒だからね」 「うん」 そして環に目を向けると、深々と頭を下げた。 「深夜に失礼いたしました」 生真面目にそんなことを言うものだから、環は思わず吹き出した。 「本当はもっと早くに来たかったんですけど、怖かったから」 「え?」 環は首を傾げた。西が苦笑する。 「お墓って管理してる方がいらっしゃるでしょう。半端な時間に来て見つかると怒られるから。昼間はお参りにいらしてる方に見られますし」 「そうでしたの」 彼にとっては霊よりも墓守のほうがよほど恐ろしいらしい。 西らしい。 「そうだ」 西は不意に真面目な顔になった。 「ごめんなさい、僕、一瞬あなたの事なんて母親だろうと思っちゃったんです」 「え?」 「最初しず江ちゃんは迷子になっただけだと思ってて。子供はお墓から抜け出せちゃうこともあるんです。だから、子供がいなくなってるのに貴方が笑ってらしたから」 「そうでしたの…」 「ごめんなさい」 西は頭をぺこりと下げた。 「でも、すぐにしず江がここに住んでいないんじゃないかと思ったんでしょう?」 「ええ。貴方が子供がいないのに笑っていられる方には思えなくて」 「どうして?」 「そういう目をなさってるから」 屈託のない西の言葉に、環は顔を赤らめた。 「ありがとうございます」 環は、全ての思いをその一言にこめて頭を下げた。西の声が静かに響いた。 「お元気で」 環が顔をあげると、そこに西の姿はなかった。 そろりと扉の隙間から顔をのぞかせる。 誰もいない。足音を立てないようにして中にはいると、西は階段に向かった。 「ただ今くらい言えよ」 「わぁっ!」 西は階段の途中で足を滑らせた。 「馬鹿かお前」 「ぐっ!」 階段から転げ落ちる痛みの代わりに、強い衝撃に肺を押しつぶされそうになった。 声の主が足で西の背中を支え、転落を防いだのだ。 「お兄ちゃん」 「東って呼べっつってんだろ」 東は相当に不機嫌な顔をしている。西はしばらく考えてから感心したように言った。 「相変わらず体柔らかいねぇ」 「落ちるかこの野郎」 「あ、ごめん! ごめんなさい!」 西は手すりを掴んで体勢を立て直す。 「ただいま」 「それでいいんだよ。…いやよくねぇ」 東は頷いた直後に首を振る。 西は東の視線を追う。自分の頬に傷にそれが向けられていることを知り、右の掌を東に向けた。 「怪我しちゃった」 「見りゃ分かる」 「手当てして」 「良し」 東は満足げに頷いた。 「こっち来い」 「うん」 東が差し出した手を、西はじっと見つめる。 「なんだよ」 「お兄ちゃん、あのね、お兄ちゃんのお陰で一人の女の子がお母さんに会えたんだよ」 「東って呼べって」 「お兄ちゃんが僕といっつも手を繋いでくれるから、僕も皆と手をつなげるんだ」 東の眉間の皺がますます深くなる。 「東」 「お兄ちゃん」 「……馬鹿」 「うん」 「うんじゃねえよ」 頷いた西の頭に、容赦なく東の拳が落ちた。 殴られた頭を擦りながら、いつまでも西は笑っていた。 |
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