The story for myself.


 足音が遠く近く響いた。其の狐は何処か人に似て、人でなく、私は迷つたと知りながらも狐に頼んだ。
 この世でなく、違ふ何処かで私の為にだけ話を書きたひのだ。
 狐は笑つて言つた。
 全く無粋な人間の何と強欲な事か。だがお前の世が其れ程までにお前にとつて価値の無き物ならば、此処に居ることもさう悪くはなからうと。
 全く、この狐こそを傾き者と呼ぶべきであらう。
 白髪、白き肌に蔦の如き朱の刺青を施し、緋色の着物を纏つてゐた。何とも艶かしき狐であつた。

 祖父が、死んだ。
 司を大層可愛がってくれた祖父だったので涙が出ると思っていたが、通夜を過ぎても葬式が終わっても涙は一雫も零れず、それを却って苦しく思いながらベッドに入ったはずだった。
 葬式の翌日は、残された祖母と両親と姉、家族だけでゆっくりと過ごそうと決めていた。
 その筈だった。
 けれど目が覚めると、ここ数日ですっかり見慣れた祖父の家の天井ではなく、古びているくせに奇妙に美しい藍の社が目の前にあった。
 朽ち果てる寸前のような、それでいて千年も二千年も先まで建っている姿を容易に想像できる、不思議な姿の社だった。司は社を上から下までゆっくりと眺める。毎年の正月、祖父の家を訪ねてから行く神社があって、その神社を藍に塗ったようにも見えた。しかしはっきりとそれだけでは無いと分かる、奇妙な既視感があった。
 しゃん、とどこかで鈴が鳴る。
「困ったもんだねぇ」
 映画で観た遊女のような、婀娜な言葉が司の耳に届いた。どこから聞こえてくるのか分からない。
 木々に反響している。
 そこでようやく司は気付いた。地の最果てまで森が続く事が当然と思える、深く優しい風のそよぐ森。そこに、いるのだ。祖父の葬式に参列した時の高校の制服のまま。
「そんな無粋な物でここの土を踏まないでおくれ。素足で土を踏んでも、ここの土はお前のやわな足を傷つけることなどないよ。その不細工な履物をお脱ぎ」
 さあさあ、森に木霊する声がそっと促す親の優しさで言う。この声が言うのならばここには何も傷つけるものは無いのだろうと妙に納得して、司はローファーと靴下を脱いだ。
「履物は然るべき場所にいれるもんさ。お貸し。帰る時にお前の足に戻るようにしておいてやるから」
 司が片手ずつにだらりと下げた『不細工な履物』が、声がそう言った途端に霧のように消えてしまった。
「…ここ、どこですか」
 搾り出した声は、それでも落ち着いていた。
 しかし、声は司の質問に喉で笑い声を立てる。
「全く、無粋な履物に気概のない顔、それに南蛮物かい? その面妖な着物は。これ程流行らない格好もあるまいよ。体ばかり大きいのはいけないねぇ」
 だろう? と最後に付け加えた声が、急に現実味を増していた。司の背骨を上から下に走りぬける、鮮烈な声だった。
 目の前の社の戸が、突然開いた。
「お前はまるで愚か者の顔をしているね」
 言いたい放題に先刻から司を馬鹿にする、その声の主は若い男だった。
「……」
「粋ってのは私みたいなのを言うもんさ。男は粋でなくっちゃいけない」
 体が通る分だけ引いた戸に体を預け、腕を組み、婉然と微笑んでいる。緋色の着物が風に揺れていた。白い肌に、まなじりに差した朱の刺青と微笑んだ唇だけが赤い。
 艶かしいとはこういうことを言うものか、と司は思う。そして、どこかで彼の事を知っている自分に気付いた。
「お名乗りよ。お前は訪問者で、私はこの森と社の主だよ。お前から名乗るが筋だろう?」
 社と同じ藍の瞳に白髪の男は、小首を傾げてそう言った。全く、仕草一つ一つが奇妙に艶を帯びていて、美しい。
「聞かせておくれ。お前さんの名前を」
「…水野、司」
 名乗ると、男はそうか、と頷いた。
「水を名に抱く家の出かい? それじゃあ、ここに来る筈だねぇ」
 そうかそうかと男は楽しそうに何度も呟く。
「お前の名前は聞いた。なら私が名乗る番だね。翔雨とお呼び。…さあ」
 翔雨と名乗った男は、音もなく滑る戸を全て引いた。
「ここは水社の杜、私は翔雨、お前は司。必要な名前は全て揃った。お入り。私はお前を歓迎しようじゃないか」
 翔雨が司に見せた社の中には、長い川の流れる草原が広がっていた。明るく、暖かく、鳥の鳴く声すら聞こえる。
「……何で、川が」
「人間には珍しかろうね。私たちの世界じゃまあ、よくある事さ。さ、お入り。戸はお前が閉めるといい。戸は本来自分で開け、自分で閉めるものだからね」
 翔雨はそう言うと草原にすたすたと入っていってしまった。日が殆ど差さない、薄暗い森の中ではそうと知れなかったが翔雨の髪はどこか銀のような光を持っていた。
「お邪魔します…」
 司は社に足を踏み入れる。森の土と同じく、草原の土は柔らかく司の足を包んだ。
「名も無い川さ。数百年前にふらりとやってきていついてしまった。つい先日までは空もいたのだがね、飽いたのか帰っていったよ」
 翔雨の言葉に上を見上げればそこは朽ちかけた社の薄汚れた天井で、不思議な事に天井だけを見上げればここは確かに狭い社であるのに目を下に戻すとそこには果ての無い草原が広がっているのだった。
「天井が不思議そうだね。空と地の面積が同じでなけりゃならないなんて、誰が決めたんだい? 私のところじゃ細かい事は有るものの有り様に任せてるのさ」
 翔雨の言うことは、司には想像もつかない、途方も無いことのように思える。驚く司を、今度は翔雨も笑う事はなかった。
「風は空にも土にも付きまとう。川が流れるにも多少の風がいる。上流から下流に下るだけで流れる水などあるものかね」
 川辺に立った翔雨は、司を手招きした。春の風が、司の頬を撫でていく。翔雨の隣に立った司は、ゆっくりと息を吸い、吐いた。
 翔雨が嬉しそうに笑った。
「いいねえ。そうさ、呼吸は深く、長く。そう言うものさ。ああそうだ司、後ろをご覧」
 ついと白い指が司の来た方向を指した。振り返れば、藍色の戸が何の前触れもなくぽつりと建っていた。一枚の板切れのような戸の向こうにも川は続き、草が揺れている。
「安心おし。戸はいつでもあそこにあるからね。帰りたければいつでもお帰り」
 司は頷いた。そもそも閉じ込められて帰ることが出来なくなるかもしれないという事を考えもしなかったが。
「…まあ、それと言って今すぐ帰られても寂しいからね、少し話そうじゃないか。座るかい? 私は座るよ」
 草の上に腰を下ろした翔雨につられ、司は彼の隣に腰を下ろした。
 立って見ている分にはそれ程の幅もないように思えた川だったが、座って見れば向こう岸まで泳ぐのは少し面倒に思えた。
「僕、何でここに来たんだろう」
「眠ったんだろう?」
 まるで眠ればここに来るのが当然だと言わんばかりだ。
「僕は今まで何度も眠ったけど、貴方に会ったことはないです」
「そりゃあそうさ。物事には波がある。川にも海にも湖にも波が立つだろう。たまたまお前の波と私の波が、ほんの刹那ばかり全く同じに引いて寄せた、それだからお前はここにいるんだよ」
「じゃあ、眠って無くても貴方に会えるんじゃないんですか?」
「変な事を言う子だね」
 藍色の瞳が丸く見開かれる。
「お前にはお前の世界があるだろうに。ここは私の世界であってお前の世界じゃないよ。寝ても覚めてもここにいるようじゃいけない」
 翔雨は、胡座をかいたその膝の上で頬杖をついた。翔雨の緋色の着物の裾が川の水に濡れていた。
「この川、名前無いんですか?」
「無いよ。名前なんざ無い方がいいのさ。こいつは元々山ん中流れてたんだがね、人間達に見つかり名付けられる事を厭ってここに来た」
「名付けられるのが嫌で?」
「そうだよ。名は縛るからね。私と同じさ。傾き者で、名前を名乗って偉ぶるのがどうも性に合わない。幸いここには他の川もいないからね、いつまでもいていいと言ったら二千年も三千年も居座る始末だ。一人住まいより賑やかでいいがね」
 川は話すのだろうか。
 話さなくても、翔雨ならば賑やかに暮らせるのだろうと司は思った。
「ここの持ち主は、貴方なんですか?」
「そうだよ。ほら、あれだ。『中古のまいほーむ』という奴だよ。親父の持ち物だったんだがね、何百年か前にぽっくり逝ってしまったから私が貰った」
「マイホーム?」
 横文字言葉は翔雨の朱色の唇から聞くには些か不似合いで、司は微かに笑う。
「意外かい? 私がお前の世界の言葉を知っているのは。これがあるからね、大抵の事は知っている」
 言いながら翔雨は着物の袂から、どうして仕舞っていたのか不思議に思えるほどに大きな古びた箱を取り出した。
 歴史の教科書で何度か見た覚えがある。第二次世界大戦が終わったあの朝、玉音放送を聞く為に人々がこれに似たような箱の前に集まっていた。
「…ラジオ?」
「ああ、そうだそうだ。ラヂヲとか言っていたよ。これを置いていった奴も。置いていったときは聞こえていたんだがね、仕舞いに壊れてしまったのか聞けなくなった。それがついこの間…と言っても多分お前が生まれる前だがね、ふらりとやってきた奴が直してくれたのさ。こういうからくり物を扱う仕事だとか言っていたね。これは波をあわせるのが上手いらしい」
 周波数を合わせて音を聞く機械だ。波を合わせる為にある機械なのだ。それを翔雨に言ったが、翔雨は良く理解できなかったようだった。
「これを置いていった奴は、必死だった。何だかよく分からなかったが、大きな戦があって兵に取られそうになったとか言っていてね。空襲とやらで家族と恋人いっぺんに失ってしまったものだから、最早自分には書くことしかない、それを国が邪魔をすると泣いていた。男は物書きだったのさ」
 翔雨は川にラジオを投げた。あまりに自然にそんな事をしたので司は驚くことすら忘れたが、川の水面に触れる寸前でラジオは姿を消した。
 片付けたのだろうか。
「私は、ならば邪魔がなくなるまでここにいていいから書けと言ったのさ。無粋な邪魔で面白い物語が消えてしまうのは、不快だからね」
 鳥の鳴き声が、再び聞こえた。けれど、遮るもののない草原であると言うのに鳥の姿は一向に見えなかった。
「男はどこからか盗んできたって言うあのラヂヲに耳を傾けて、自分が戻れる日を待った。待ちながら書き続けてね、一つの長い物語と数え切れぬほどの短い話を書いた。どれも読んだが、面白かったよ」
 翔雨は水面の上に身を乗り出して、掌でそっと川に触れた。
「男が帰る日に、あのラヂヲをくれと言ったのさ。人の世界もなかなか奇妙だと思ったからね」
 そして川の中に手を入れ、そこから林檎を二つ取り出した。
「お食べ。お前は元気がないから。腹が膨れれば少しは口数も増えるってものだ」
 差し出された林檎を一口齧ると、林檎の味がした。当たり前の林檎の味が、何故だか珍しく思えた。
 同じ様に林檎を齧った翔雨は、それを飲みこんでしまうと言った。
「分かるかい? 物書きの男ってのは、お前の祖父さんの話さ」
「…祖父さんの?」
 思いもせず出てきたのは、つい先日司の前から消えた人の名だった。今日の昼過ぎまでは確かにこの世にその体があったのだから、先刻、と表現しても差し支えないのだろうか。
「ここは水の社だからね、お前の姓のようなはっきりとした属性を持つ者とは波が合い易いんだ。血縁者が何代か後にここに来るってのも、まあ珍しくはあるがないことじゃないよ」
 翔雨は言いながらもう一口林檎を齧る。
「お前の祖父さんも大概喋らない男だったねぇ」
「え? …そうでも、なかったけど」
「そりゃそうさ。誰だって子供が生まれて孫まで生まれりゃ口数も増える」
 子供心にも、祖父が不器用な性質である事は分かっていた。手先は恐ろしく器用だったけれど、生き様は全く不器用だった。
 思い起こせば、祖父が祖母に笑顔を向けたことがあまり無かった様にも思える。孫にはあれ程簡単に笑顔を見せた人であったのに。それでも祖母は祖父との暮らしを愛していた。
 不器用な祖父を、理解していたのか。
「…祖父さん、僕が口数が少ないっていっつも笑ってた」
「昔の自分を見ているようだったんじゃないのかい?」
 困り顔で微笑して、司の頭を撫でる祖父。
 何故か、その光景を思い出した。翔雨の笑い方が、多少似ているのだろうか。
「でも、口数が少ないから馬鹿というわけでも、のろまというわけでもないって。お前は黙っているのが好きならそれでもいいよって、言ってくれました。お前にはお前の歩き良い速度があるんだからって」
「お前の世界じゃ無口な輩は阿呆だのろまだ言われるのかい? まあ、それも随分と乱暴な話だねぇ」
 初めて翔雨は眉根を寄せて不快を示した。彼は本当に無粋を厭うらしい。
 司、お前は知る事を知っているのだからそれでいい。そう言って笑ってくれた祖父。
「…死んだんだろ? 祖父さんが」
 ぽつんと、独り言の如く翔雨は呟いた。司は最早翔雨が何を言おうが何をしようが驚く事もなかったが、その言葉に胸の奥が揺れるのを感じた。
 翔雨は微笑む。
「私はね、こうしてのらりくらりと暮らしちゃいるが一応氏神の端くれでね。お前はここと似た社を知ってるはずだよ」
 芯ばかりを残してすっかり食べてしまった林檎を、翔雨はラジオと同じ様に川に放った。
 林檎は素直に川の中に音を立てて落ちた。
「だから、縄張りの中で誰が死んだの生まれたのという事位は眠っていても伝わってくるのさ。まったく、お前を目の前にして言うのもなんだが面倒な話でね」
「面倒?」
「私は人が好きだから、誰かが生まれれば心躍るし死ねば気が塞ぐ。あんまり大勢死んだり生まれたりするもんだから、厭になってしまったのさ。生まれれば死ぬ、死ねば生まれる。全く意味がない」
「…意味がないって」
「早とちりするんじゃないよ、せっかちな子だねぇ。私には何も出来ないのに、苦しいばかりだ。私に聞かせる事に意味がないと言ってるのさ」
 姿の見えぬ鳥の声。姿が見えないのは、翔雨に自らの生き死にを悟らせない為だろうか。鳴き声は確かに複数の鳥の声で、しかし聞き分けなど望むべくもない程にそれぞれがそれぞれに似通っている。
 優しい場所なのだ。
「人は勝手に生まれて勝手に死ぬ。私の所にも大勢がやれ長寿だやれ安産だと頼みに来るがね、私にゃ何も出来はしないのさ。長生きするのも早死にするのも人の勝手、神が介入していい問題でもなかろうに」
「でも、祖父さんはいっつも初詣で熱心に祈ってました」
 司が翔雨の言い様に苛立ちを覚えてそう言うと、翔雨は吹きだした。
「お前の祖父さんがかい? まさか!」
 翔雨は大げさに首を振った。
「お前の祖母さんは信心深い方じゃないかい?」
「ええ、まぁ」
「だろう? 女房に叱られるのが恐くて熱心に祈るふりしてたんだよ。全く本人は無心のまんまに二礼二拝してただけさ。すっきりした面白い奴だったねぇ」
 そう言えば、祖父は札だの破魔矢だのを初詣に買う事を面倒に思っていた節がある。行列が嫌いなのだと思っていたが、そう言う事だったのか。
「神を持つことを…信仰を持つって奴だね、どうも私らを十派一絡げにしていてこの呼び方は好かないのだが。とにかく見えないものを信じる事を嫌った奴だった。目に見えるものを信じようとしてたのさ。賢明だよ」
「賢明?」
「目に見えるものを信じるってのは、賢いと思うがね。逆に私らのような目に見えないものを信じるのは堪え性のある証さ。見えるものを信じるのは容易く、また裏切られやすい。私らを信じる事は難しいが、裏切らないからね」
 何もしないんだから裏切るも何もないのさ、翔雨はどこか悟ったような口調で言う。彼は確かに人では無いということなのだろう。
 翔雨は大きく溜息をついた。
「お前も何か信じなくっちゃいけないよ。何も信じないのはよくない。そんなのはろくな奴にならないからね」
「…何を?」
「知らないよ。ああ、他の氏神の名誉のために言っておくけどね、私はかなりの傾き者。他の奴はもうちっとばかしは仕事熱心だよ。縄張りの浄化くらいはやってるだろうし、そう信じるに値しないものでもない」
「人も、神も信じるのは?」
「それもあるさ。正しいか正しくないかなんて事は自分で全部決めるがいいよ。誰かを傷つけるのがお前にとっていいことならばそうすればいいのさ。いい事も悪いことも、それなりに自分に返って来てくるものだからね。…しかし」
 翔雨は立ち上がった。そして朱の着物が濡れるのも構わず、川に足を踏み入れた。
「どうもお前は口が重いね。私もそれほどお喋りな性質でもないんだよ。なのに私が喋ってばかりだ。おいで。川に潜ろう。水遊びでもすればちっとは心も軽くなるだろ?」
 差し出された、白い掌。そこに人差し指の先から手首を巻くような、蔦に似た朱の刺青が見えた。
「さあ。三途の川じゃないよ、安心おし。まったくあれも無粋なもんさ。あっちとこっちを分けるんなら看板でもぶっ立てておけばいいじゃないかねぇ、わざわざ川作って死んだ奴から金取るようなみっともない真似をして」
 司は立ち上がりかけた。川は澄んでいる。魚が泳いでいるのか、底に近いところで煌くものがある。
 しかし、川に入る事はどうしても躊躇われた。
「どうしたんだい?」
「…服が」
「服が濡れたら乾かしゃ済む事じゃないか。それくらいお前が瞬きする間に私がやったげるよ」
「でも」
「でも、なんだい?」
「…入れない」
「入りたくないのかい?」
「…そうじゃ、ないけど」
 昔、祖父とこうして遊んだ。夏になると川へ自転車に乗って行った。泳ぎを教わり、釣りを教わった。
「祖父さんがいなくて、川に入る意味なんざないかい?」
 翔雨が、何時の間にか司の目の前に立っていた。
「お前の祖父さんが来たよ。お前が来る少し前に。厄介な事を頼まれたもんさ。安請け合いした私が悪いんだがね」
「え?」
「どうも孫は口が重くていけない、普段ならそれもそう言う性質なんだで済むだろうが、今度ばかりはそうもいかないって。心配してなすったよ、お前の事を。悲しい事を悲しいと言えないんじゃ何時までもそれが腹ん中に凝ったまんま、お前を悲しくさせるばかりだ。きちんとケリをつけて、しっかり歩かなけりゃ」
「でも、僕」
「お前は自分をまず司らなくっちゃあいけない。司って立派な名前、祖父さんから貰ったんだろう? 名前は縛る。縛るが、お前を支えるんだ。この川は名前がないから何も縛られないが、ご覧よ、その所為でふらふらふらふら何時までもこんな所で下らない毎日を過ごしている。神ならそれでも構わないがお前は人の子、無様な真似はお止し」
 ぴたん、と翔雨の冷たい掌が軽く司の頬を打った。痛みと言うほどの事はなく、ただ心地よい冷たさが司の精神に入り込んだ。
「口数が少ないのは結構。下手に喋って相手に傷をつけるよりいくらかマシさ。だがね、無口な男ってなぁ考えない男の事じゃないよ。女は何時だって寡黙で優しい男を好くもんさ。いい男におなり。祖父さんもそれを望んでるよ。自分の思っていることから逃げるのは良くない」
「逃げてない。…泣けないから、泣かない」
 司は首を振った。
 祖父がもういない、それを何度も現実の事として確かめた。冷たい遺体に触れもしたし、応えの無い体に話し掛けもした。
 祖父は死んだのだ。それが分かってるのに、それを翔雨も知っている顔をしているのに、何故。
 苛立ちが込み上げる。
「泣けないんなら、きっとそれはそれだけの事だったんだ。僕は逃げてないし、きちんと祖父さんを見送ったし、何でそれを貴方に無様だとか良くないとか言われなきゃなんないんだ」
 翔雨は、暫く無言で司を見つめていた。濡れた彼の髪はやはり白髪に見えた。
「…可哀想に」
 翔雨は天を仰いで溜息を吐き、次いで司の頭を撫でた。
「本当は人間に力を使うのは好きじゃないんだが、仕方ないね。お前は随分取り乱してしまっているようだから」
 翔雨の白い指が、口早に何事かを呟く唇の上を右から左に滑った。薄く光を放つ指の刺青が、軌跡を描く。
 鳥の声が、消えた。
「目を閉じて息を吸ってごらん。好きなだけでいいよ」
 司は苛立ちを抑え切れぬまま、それでも言われた通りに肺に入るだけの酸素を取り込んだ。
 心の底で本当に苛立っている相手は、翔雨ではないことを知っていた。
「そう、呼吸は自分のいいようにするものさ。忘れるんじゃないよ」
 言いながら素早く司の瞼に触れた、冷たい指先。紅い光が瞼を通してさえも眩しかった。
「心で五つ数えて目を開けるんだ」
 風も、鳥の声も、川のせせらぎも消えた。目を閉じた、その薄暗い世界の中で。
 司は刹那、祖父の笑顔を見た。ただ一瞬。
 翔雨が見せたのは、それだけだった。
 目を開ける。翔雨が奇妙に歪んで見えた。
「ああ、久しぶりにやったんで心配だったんだがね、成功したようで良かった」
「え? …あ」
 ぼろぼろと、制服に当たって砕け散る雫。翔雨の体から落ちたものではなかった。
 司の瞳から、零れ落ちた涙。
「ちっと強引だがね、これでいいだろ? 言っとくが私はお前の涙を流させたんじゃないよ。見たいものを見せただけさ」
 こんなのは意味がない、ただ翔雨が不可視の力を使った、それだけの事だと言おうとして司は躊躇った。
 ああ、こんな風に泣いてやればよかったと。
 そう刹那、思った。
「お前は祖父さんが臨終の時にも何も言わなかったそうじゃないか。無粋だね、別れだって事知ってたろうに。…だが」
 翔雨は声も泣く涙を流す司の前で、一つ頭を振った。その途端、今まで濡れそぼっていた緋色の着物は春の日を一日浴びたかのように膨らみを取り戻した。
 そして、初めて会った時と同じ艶のある微笑を浮かべた。
「無粋は無粋だが、いじらしいね」
「…いじらしいって、この場合違う気がする」
「ああ、いじらしくない。これはいけないね。揚げ足取りなんざけちな野郎のする事だよ」
 刺青の人差し指が司の頬を拭った。その仕草に如何ともし難い何かが込み上げてくるのに、司はひくりと喉を鳴らすことしか出来なかった。
「後悔ってのは思いの裏返しさ。お前が今、その刹那の事を後悔してるってんならそれで充分」
 再び翔雨は司の隣に腰を下ろし、今度は川に目を向けた。
「祖父さんはね、お前に自分の死を悲しんで欲しかったわけじゃないよ。言わなくても分かってるだろうがね」
 無理矢理に堰を外された涙は、司の呼吸を半端に奪った。みっともなく喉をひくつかせて泣く司を翔雨は無様とも無粋とも言わず、むしろその美しい手で司の頭を撫でた。
「お前が心配だったのさ。自分の思ってる事受け止めるのが下手な孫が、自分の死ぬ事で壊れちまうのが嫌だったんだよ。お前がどれだけ自分を愛してくれてるか、あいつはよくよく知っていた。だから、お前に泣ける場所と気持ちを与えてやってくれまいかと頼まれたのさ。…それでこれは、祖父さんからの預かり物だよ」
 翔雨は、自らの着物の袂から白い布を取り出した。綺麗に畳まれたそれを、未だ涙を零す司の目の前に差し出す。
「…これ、祖父さんの」
 何度か見た覚えのある、祖父のハンカチだった。
「本当はご法度なんだよ、死者が生者に物を渡すのは。だが後生だからと頼まれた。…後生も何も、死んじまってるくせに」
 司はハンカチを受け取った。ハンカチを温かく感じたのは、翔雨の体温だろうか。祖父が持っていた所為だろうか。
「お前が泣いたらこれを渡してやってくれとね。孫の涙をもう拭う指は持ち合わせてない事、承知してたのさ」
「…僕は、祖父さんには会えないんですか」
「死者の後ろ髪ひくような真似をするもんじゃないよ。…まあ」
 そこで、翔雨はちらりと川を見た。川に何があるのかと司も目を向けるが、涙で潤んだ視界の所為か、人と神の目の違いか司の目には何も映らなかった。
「…私も神の端くれ、お前は水の名を抱く者。序でに長年年始めには詣でてくれたようだからね、『さーびす』とやらをしてやろう」
 ようやく涙が収まり始めた司の視界に、翔雨の手が差し出された。
「お前が持っているもので、祖父さんに渡したいものを何か一つだけ渡そう。お前のその妙ちくりんな着物にはあれだろ? 何か入れる袋がついてるんだろ?」
 司は自らの制服を見つめる。葬儀の時に着ていた制服と、何一つ変わらない。そのポケットにハンカチ以外の何を入れた記憶もない。
 祖父のハンカチを貰った今、翔雨の掌に乗せるには、自分のハンカチはあまりに軽すぎた。
「お前は本当に愚か者だね」
 翔雨が溜息を吐く。
「私の世界じゃ細かい事はその有り様に任せてるんだと言っただろうに。袋に入れたものしか取り出せないなんてのは私の世界じゃ蟻の脚よりちっぽけな事さ。ある筈だとか無かった筈だとか、余計な事で無理を増やすのはお止め」
 司は、ズボンのポケットが不意に重くなるのを感じた。
 よく知った重さだ。そんな物を入れておくなと葬式の前に母親に取り上げられて、そのままの筈の物が、一つだけある。
 毎日、取り出す事は無くても持っていた。
 司はポケットに手を入れる。ズボンの座り皺に巻き込まれて皺くちゃになったハンカチと、表紙の擦り切れかかった文庫本。
 その二つが、出てきた。ある筈のものと、あって欲しかったもの。
「お前は祖父さんそっくりだね、司」
 文庫本を差し出した司に、翔雨は嬉しそうに言った。
「そっくりだ。ラヂヲを毎日聞いていたお前の祖父さんと、今のお前は全く同じ眼をしているよ。無粋で、欲張りで、迷っている。その実自分の本当に望むものは腹ん中にもうきっちり抱えてる」
 全く無粋な人間の何と強欲な事か。
 祖父の、人柄とは逆に微かに冷たい印象のある文が司の中に蘇った。
「…この本。『足音』っていう話が」
 既視感があったのはこの所為だ。何故忘れていたのか、思い出して見ればそちらの方が不思議で仕方ないほど身近にあった物語。
「多分…貴方の事だ」
「?」
 ぱらりと文庫を捲った翔雨は、内表紙の表題に目を止めた。藍色の瞳は何か気に食わぬげに細められる。
「なんともまあ、色気の無い文字だね」
 活字の事を言っているものか。読み難いったらないね、と呟きながら翔雨はぱらぱらと大まかにページを繰った。藍色の瞳は、草原や川に向けたものと同じ優しさを持って彼の嫌う無粋な活字を追う。
 そして、目を細めた。
「…ああ、まだ読んだ事のない話があったんだねぇ」
 翔雨は、それだけ呟いた。自らの事を書いた話だと気付かぬわけは無く、どこか嬉しそうな響きだった。
「祖父さんに渡してください」
「これでいいんだね? お前は、これを渡したいんだね?」
「…これが、いいんです」
 翔雨の言葉に頷くと、彼は本を袂へと仕舞った。
「忘れないって、伝えてもらえますか? 僕はこれからも生きてかなきゃいけないから、思い出す度に泣くわけにはいかないけど、でも、忘れないって」
「注文の多い家系だね、お前の所は。まあいいさ、言葉は目には見えないからね」
 狐のくせに何故か水に属する氏神は、溜息混じりに頷いた。そして、その瞳を川へ向けた。
 先刻から奇妙に彼が気にしている果てのない川は、そう言えばどこと無くもとより緩やかな流れが更に緩やかになっているように司の目にも映った。
「川主」
 翔雨が川に声をかける。
 どこかで、小石が投げ込まれたような小さな水跳ねの音が聞こえた。
「急いだ方がいい。もう、来る」
 声は川の中から聞こえた。しかし草を踏む微かな足音は、司の背後から聞こえた。その矛盾に戸惑いながら、司は振り返る。
 翔雨とまるで対照的な、黒髪の男がいた。
「この川の主さ。名は無いんだが共に暮らす以上それも不便だからね。川主と呼んでいるよ」
 事実を表す以上の力の無い名だ。記号とまるで同じ事なのだと司は教えられるより先に気付く。
「あの川の向こうの森を抜けた所に、三途の川を渡った奴の通る場所があるのさ。ただそこまでお前を連れていくわけに行かないからね、私が一人で行こう。でも、お前も川の向こうまではおいで。見ておけば、きっとお前に何かをもたらすだろうから」
 司の目には、川の向こうにもただ限りなく広がる草原以外木の一本すらも見えていない。
 川の向こうを凝視していると、川主が微かに笑んで言った。
「森が、見えないか?」
 司が頷くと、川主は川に掌を近づけ、何かを呟いた。目線で問い掛けた司に、翔雨は説明する。
「お前の感覚に合わせてるのさ。他の人間に比べりゃお前は随分ここに近い波を持っているが、それでもここはお前にとっては神の世界だからね。多少のズレは生じる。川の流れがお前には少し五月蝿いんだよ」
 川は、川主の命令に従うようにぴたりと流れることを止めた。
「これでいい。川を渡れば君にも森が見える」
 翔雨に比べるとはるかに穏やかで理性的な声で、川主は話した。なるほどこれがあの川の主かと、納得させる声だった。
 川主と翔雨に続いて川に入る。川の水が水らしいよく知った冷たさであったことが、幾分意外だった。流れは川主が止めたときのまま、跳ねる事すらしない。
 川を渡りきるまで、何故か司は水面を見つめ続けていた。
 森を見てしまうことが、少し恐かった。
「司、川を上がるよ。顔をお上げ」
 翔雨が川を上がった。川主もそれに続いた。
 司は上がりかけて、躊躇った。上がる事を、川向こうの森を見ることを、嫌だと思った。
「…上がるのが、恐い」
「司」
「ちょっと待って。少しでいいから。…大丈夫だから」
 今更祖父の死を認めたくないということも無い。本を翔雨に託したのは司にとっては別れの儀式だった。確かに未だ寂しさも辛さも残っている。しかし、それでもそれはこれからも前を向いて歩いていくために必要な類のもので、決して歩みを止めるものではない筈なのに。
「…あいつもいい孫を持った」
 翔雨が、ぽつりと言った。
「いい孫なんかじゃない。迷ってばっかりで、自分の事ばっかりで、…貴方から見たら『無粋』でしょう?」
「いいや。お前はいい男だよ」
 翔雨が一歩を踏み出せないままの司の頭を撫でた。
「さあ、私はもう行くよ。時間が無いからね。少し待っておいで。川主と離れなければ何も危ないことは無いから、よく考えて、その一歩を大事におし」
 頼んだよと川主に告げる声に続いた足音が、段々に遠ざかっていく。
 残った川主が、川縁に座り込んだのが見えた。
 物静かな川の主は、指先を水につけた。
「もう川を戻しても平気だろう。風も君の波を掴んだようだから」
 そう川主が言った途端、川は緩やかに流れ出した。元より静かだったその川は、更にその静けさを増したように司には感じられた。
 冷たさはそのままに、包み込む柔らかさと温かさがあった。その中で、川主は言う。
「耳を澄まして、よく聞いてみるといい。きっと君にも聞こえる」
「何が?」
 さらりと川主は答えた。
「足音が」
 司の肩が震えた。川主の答えに更に誰の、と問いを重ねる事は必要なかった。
 何も聞こえていないことは確かだ。鼓膜を震わせるのは、川の流れと川主と自分の息遣い、ただそれだけ。
 しかし、胸の底を叩く何かがある。
 ゆっくりと、次第に強くなる鼓動。心臓のそれではなく。
「君は血を継いでいるから、俺よりもはっきりと分かる筈だ」
 随分ゆっくりになったと、数年前から微かに不安を感じていた。確かに迫り来る別れは認めがたく、目を逸らし続けた。
「もう本当に最後だと言うことも、分かってるんだろう?」
 足音は近付いてくる。よく知ったあのリズム。
(…祖父さん)
 何でもっと並んで歩いておかなかったのだろう。心に刻み付けておかなかったのだろう。
 遠くに行ってしまう人だと分かっていたのに。
 司は川を上がった。川を上がったそこには、大きな森があった。
 背が高い木々がどこまでも続く。全くこの世界にはどこにも果てと言うものが無い。
「…祖父さん!」
 姿は見えない。木々は司の声を遮る。
 それでも、司は知っていた。
(孫の声を聞き逃すような人じゃない)
 翔雨も言っていた。つまらないことで無理を増やすものではないと。
 伝わると思えば、伝わる。司は今そんな世界にいるのだ。
「祖父さん! 祖父さん、祖父さん祖父さん!」
 司は叫んだ。涙を流す暇も無い。
 これが、最後。
「僕、絶対祖父さんの事忘れないから! 僕は大丈夫だから!」
 思ったことを思ったままに叫んだ。
 ゆっくりとしていた足音が、更に遅くなった。
「今、一番ここから近い所にいる。お前の真正面に」
 川主が教えてくれた。
「…叫ばなくても伝わる」
 木々の所為で姿は見えない。見えなくていい。
 司は息を深く吸った。
「ありがとう。さようなら。……僕は」
 足音が止まった。
「僕は、祖父さんが大好きだ」
 川も、風も、全てが静まり返った。
 司は呼吸すら忘れていた。
 その静けさの中に、とん、と地面を蹴る音が聞こえた。
 小さく、ゆっくりと、三回だけ。
 爪先で地面を三回蹴る。出掛けに靴を履くときの祖父の癖だった。
 そして足音は次第に遠ざかっていき、やがて聞こえなくなった。
 祖父は、逝ってしまった。
 そこで司はふと、翔雨の言葉を思い出した。
「…死者の後ろ髪を引く真似をするもんじゃないって言われたのに」
 これは、この世界の約束事を破ったことにはならないだろうか。何か祖父に悪いことにはならないだろうか。
「大丈夫だよ」
 司の不安を打ち消すように、木々の奥から翔雨が姿を現した。奥に向かった時は濡れそぼっていた筈の翔雨の着物は既に乾いていて、そこでようやく自分の制服も川主の着物も乾いていることに司は気付いた。
「聞こえたろう? 祖父さんの合図」
「あれは、祖父さんが出掛けに靴を履くときの癖で…あ」
 そうだ。出掛ける時の合図。
 行って来るよと、告げる合図だ。
「お前は祖父さんの背中を押したのさ。何も悪いことなんかないよ。後悔の残らない別れなんてないんだ。去るほうも去られる方も未練は残る。お前はその中で十分よくやったよ」
 祖父はいなくなった。
 司の手に、祖父のハンカチだけが残った。
「さあ、お前も扉を開けなくちゃいけないよ」
 渡ってきた川の向こうに、司の閉めた戸がある。藍色の、古びた引き戸。
「お前と一緒に川を渡る事は止しておこう」
 藍色の瞳に朱の刺青を施した男は、同じ朱の刺青の入った手を差し出した。
「行っておいで」
 司はその手を握り返した。そして、初めて翔雨に微笑を向けた。
「ありがとう。…行って来ます」


 扉を開けると、見慣れた天井が目に入った。祖父の家の天井だ。カーテンの隙間から漏れる光。
「……」
 現実に戻ってみれば、そこは既に朝を迎えていた。着ているのは昨夜着たとおりの寝巻きで、制服は少しの湿り気も無く部屋の隅にかかっていた。
 夢は、夢だったのだろうか。
 しかし、手に何か柔らかい物を感じて司は右手を布団の外に出した。
「…あ」
 祖父のハンカチを、司はしっかりと握り締めていた。
 祖母はきっと眠れぬ一夜を過ごしただろう。祖父の娘である母も、今朝は泣き腫らした目をしているかもしれない。姉はそう言う事を表に出さない性質だけれど、今度ばかりはそうもいかないのではないだろうか。父と祖父は義理の親子だが関係も良かったから、拭いきれない寂しさがある筈だ。
 それは司も変わらない。
 誰もが悲しく、寂しい。
「祖父さん」
 呟いた途端涙が零れ、司は仰向けに寝転んだままだったので涙は耳に入った。慌てて身を起こしてそれを寝巻きの袖で拭う。
 それから、こんな時の為のハンカチだと気付いた。
「…っ、う」
 司は泣いた。誰の助けも借りず、声を上げて泣いた。泣いては祖父のハンカチで涙を拭い、そしてまた泣いた。
 泣きながら、祖父の書いた話を思い出していた。
 『足音』をくれたのは祖父自身で、その時は何も言わずに渡された。話も気に入っていたが、何故かそれ以上に手放せないものを感じていつも持ち歩いていた。
「…足音、聞こえてるよ」
 祖父はそのつもりで渡したのだろう。人一倍無口で自分からも目を逸らしがちだった孫に、足音に耳を傾けろと告げたかったのだろう。
 お前はお前の速さで歩けばいいよ。何度もそう繰り返してくれたのは祖父だ。
「僕も、行くよ…」
 喉の奥から絞り出した声は、情けなく震えていた。
 けれどそれは確かに、司の歩き始める合図だった。


「上から何を言われても助けられないぞ。いくつ規律を破ったのか数えるのも面倒だ」
「五月蝿いねぇ、居候のくせに。ああ無粋な男だ」
 果ての無い草原に寝転んで、翔雨は溜息を吐いた。
「ラヂヲと面白い物語を読ませてもらったことへの礼をしただけさ。知っているかい? あれは人が抱えるにはかなり重いものらしくてね、あの男は盗んでくる時に相当苦労したそうだよ。そんなものを貰いっぱなしなのは気が引ける。私は律儀なのさ」
 翔雨は瞳を閉じた。
「お前もあんな男におなりよ、川主」
「放っておけ」
 言いながら川に爪先をつけた川主が、足を止めた。
 水が跳ねている。
「呼び出しだ」
 翔雨は眉間に皺を寄せる。
「…やれやれ、世の中無粋な輩ばかりでいけないね。帰るのは少し待っておくれ。どれだけかかるか分からないから留守番を頼もう」
 川から一歩下がった川主の代わりに翔雨が爪先をつける。
「行って来るよ」
 小さな一言の後、朱の着物の神はそのまま川の中へ姿を消した。
「…俺も帰りたいんだが」
 残された川主の呟きには、鳥の声すら答えなかった。


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