殴られた事がないわけではない。転んで怪我をしたこともある。 痛みは知っている。血が流れればそれは当たり前に痛いのだ。 痛いのは厭だ。 けれど、痛みがよく分からない。 「久保田さん、怪我ほっとく癖どうにかしましょうよ。黴菌入ったら大変っすよ」 「保健の先生みたいなこと言うね」 絆創膏だらけの顔をして、小宮は久保田を叱る。意外とこまめに絆創膏やガーゼを取り替えている姿を見る。 今も久保田の指に消毒液を吹きかけている最中だ。大した怪我ではない。カップを割ったので破片を片付けていたら切ったのだ。 血もすぐに止まりそうだし放っておこうとしたら、丁度帰ってきた小宮に見付かった。そこからは、ソファに座ってください指出してくださいちょっとしみますけど我慢してくださいと、殆ど逆らう隙もない勢いで手当てをされている。 「あ、でもソファに血がついたらまずいか。これ高そうだもんねぇ」 ヤクザの事務所と言うのは、そうは見えないけれども意外と金のかかったつくりである。名の知れたメーカーのソファやら机やら灰皿やら、そんなものがごろごろしている。二時間ドラマ以外で初めて凶器級の重そうなガラスの灰皿を見た。 「そういう問題じゃないんすけど…いえ、もういいです」 久保田は怪我を放っておいて困るほどの事態になったことがない。大きな怪我をした時は何だかんだで叔父だの薬屋だのが傍にいたので、彼らが小宮のように久保田を叱り付けながらも手当てしてくれたのだ。 床に膝をついて絆創膏を巻いている小宮の頬には、大きな痣がある。痛そうだ。右手の甲には擦りむいた痕。他にもいくつか見えるところに傷があった。そのどれもがきちんと手当てされている。 「はい、終わり」 「悪いね」 礼と謝罪を兼ねて言うと、小宮は大変複雑そうな顔をした。 「どした?」 「いえ。…それにしても」 ヤクザの事務所がこんなにのんびりしてていいんすかねぇ、と時々小宮は呟くようになった。それが嫌なのかと思ったが、別段そういったわけではないらしい。 彼が今まで経験してきた環境とはあまりに異なった空気に戸惑っているだけのようだ。 「ヤクザの事務所としてそんなに変?」 「あんまりないですよ。一応久保田さんボスなのに自分でコーヒー淹れるし、簡単に俺とか修司に礼言ったり謝ったりするし、ハードとソフト持ち込んでまで対戦とか」 なるほど、気軽に「悪いね」などと言ったから小宮は複雑そうな顔をしたのか。納得した久保田は立ち上がる。 「コーヒー飲む?」 「……久保田さん、聞いた端から言われたこと忘れるのもやめましょうよ。久保田さんにコーヒー淹れさせて真田さんに叱られるの俺なんすから。座っててください」 きっと小宮はこんな調子で母親の世話も焼いているのだろう。稼業のわりに真面目な男で、あまり労働を厭わない。もっと真っ当な仕事をしても上手くやれる筈だ。 「小宮も変わってると思うけどなぁ」 コーヒーメーカーに向かう背中に言う。 「そうですか?」 「うん。…なんて言うかさ」 「はい」 「手当てきちんとしさえすれば、どんな怪我してもいいってもんじゃないと思うんだけど」 この業界では大分穏やかな性格だ。少し気をつければ、然程苦労もせずに冷静さを保つ事ができるだろう。 だから、性格のわりに小宮は怪我をしすぎている。 恐らくは半分以上故意に出来た傷だろう。痛みを誤魔化す為に別の痛みを得るのは存外有効な手段だ。 「いきなり痛い事、言わないでくださいよ」 小宮は背中を見せたまま呟いた。 ああ、小宮も痛みは嫌なのだと思った。 「…悪いね」 彼が誤魔化そうと必死だった痛みはなんだったのか知る事は、終ぞかなわなかった。 |
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