05:中華街
 いくら暇を持て余しているからと言っても、休日の中華街になんか来てはいけなかった。
「人ばっか…」
 時任は到着五分で早くも後悔し始めていた。
「だから言ったじゃない」
 気をつけなければ肩をぶつける。そんな雑踏の中を男二人で並んで歩いて、何の楽しみがあるものか。
 中華街は散らかっている感じがいい、とは思う。『雑多』と言うよりは『散らかっている』のだ。まるで何もないというのはあまり良くない。不便を感じる程度に散らかっているのがいい。
 いいのだが、足の踏み場もない状況は嫌だ。
「ココナツジュースだ」
 多分それは中華街の名物の一つだ。まだそれ程横浜に馴染んでいない身ではあるけれど、中華街ではココナツジュースを売っている露店がわりと多くある事は時任も気付いていた。横浜で育ったらしい久保田にそれが目新しく映る筈はなく、きっと彼にとっては床に落ちているいつかのレシートのような、風景の一つでしかないものだと思っていた。
 だから、頭上で響いた低い声は、少し意外だった。
「久保ちゃん、飲みてぇの?」
 斜め上を見上げれば、相変わらず底の読めないぼんやりとした眼差し。
「え、何を?」
「何って今言ったじゃん。ココナツジュース」
「言った?」
 どうやら無意識の呟きであったらしい。止まらず歩き続けながら会話をしている内に、久保田が目を一瞬だけ止めたらしい露店はあっという間に通り過ぎていた。
「何か思い出でもあんの?」
「うーん…」
 記憶を探る間も、歩みは止めない。露店はどんどん遠くなっていく。
「何だっけなぁ。何かある気がする」
「何」
 久保田は考え込みながらも、するすると器用に人を避けて歩く。ただ久保田の言葉を待っているだけの時任の方が、余程多く肩をぶつけた。
 久保田は人を避ける事に慣れているのだ。
「……ああ、あれだ」
 暫く経って、久保田は呟きと共に、一瞬だけ目を背後に向けた。
 繊維がささくれている椰子の実を両手で持った子供が、父親に笑顔を向けていた。
 どうやらその子供が、想起の切っ掛けになったらしかった。
「子供の頃さ、葛西さんに中華街連れてきてもらった事があったのよ」
「…へぇ?」
 久保田が過去を語る事はあまりない。どうやらその欠片に触れているらしい、と思うと時任は緊張した。下手に触れば切れてしまう、細い糸のような話し方を久保田はした。
 歩みは止めない。
「でもあんまり驚いたり楽しんだりとかしてあげらんなくて、二人でただ真直ぐ歩くばっかりだったんだわ」
 見慣れぬ異国の衣装や、食事や、言葉。それをただぼんやりと見つめるばかりの子供。
 容易に想像できるのが、妙に腹立たしい。
「その俺のすぐ隣を、さっきみたいにココナツ持った子供が走ってってさ。『ココナツだ』とか何とか、思わず言ったんだろうなぁ。葛西さん、俺に『飲みたいんなら買って来てやる、そこで待ってろ』って言って、人ごみの中ココナツジュースの露店探しに行って」
 低い声が妙に言葉多く語る。久保田は恐らく、自分の言葉を雑踏に紛れさせてしまいたいのだろう。
「十五分くらい、待ったかな。葛西さんが両手に一つずつココナツ持って帰って来て、その辺の道端に二人で立って飲んだ」
「ふうん…。そっか」
 そんな思い出があったのか。と、続けようとした一瞬早く、久保田が言った。
「でもそれが不味くってさ。何か物凄く薄めたスポーツドリンクみたいな」
「え?」
「俺全部飲むつもりだったんだけど、一緒に飲んでた葛西さんが急に『無理すんな』って言って。…気まずかったなぁ」
 それきり久保田は黙り込んでしまった。
 結局久保田はそれでもジュースを飲んだのか、葛西の言うとおり途中でやめてしまったのか。
 久保田にとって必要な思い出は、その部分ではないのだろう。
「でも久保ちゃんがココナツに興味持ったのも、ココナツジュースが不味かったのも、久保ちゃんが悪いわけじゃないじゃん」
「そうね」
 上手い事を言ってやれない自分がもどかしい。
「それに大人は子供の我侭聞くの、好きだったりするじゃん」
「うん」
「葛西さん、そんなことで怒る人じゃないし」
「うん」
 分かっている。こんな言葉が必要なんじゃない。
 分かっているが、上手い言葉はどこにもない。
 折角過去に触れさせてくれた久保田に、申し訳ないと思った。
 周りは五月蝿いのに、時任と久保田の間だけは奇妙に静かだった。
「…あ、そっか」
 不意に、久保田が言った。
「何」
「いや、あの時の葛西さん、こういう気持ちだったのかなぁって」
「どんな?」
「無理すんなってこと」
 うんそうだ、きっとそうだ。久保田は一人納得して頷いていた。
「意味分かんねぇ」
「うん。だからそれが、当時の俺の気持ち」
「……」
 折角話してくれたのに。
 折角買ってくれたのに。
 成程、言われてみれば似ている。
「ココナツジュース、不味いんならいらねぇぞ」
「うん」
「…帰るか」
「そうね」
「つか、そろそろ寝室片付けないとやばくねぇ?」
「お前、時々妙に几帳面だね。俺まだ余裕で許容範囲」
「俺様は気になる。帰るぞ。今すぐ帰って片付ける」
 歩みを止めて、来た道を引き返すために振り返る。
「はいはい」
 少し遅れて振り返った久保田の腕が、時任の肩に当たった。避けようと思えばいくらでも避けられる筈なのに。
 分かっているよと言われた気がして、知らず笑みが漏れた。
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