02:光と影
 手の甲を皮手袋の指先がなぞるのに、目が覚めた。
 元々が浅い眠りだ。完全に覚醒するのに時は然程必要としなかった。
「…どしたの」
 八時間ぶっ続けでゲームをし倒して明け方近くに眠り込んだ、それから時もそう経っていないのは部屋の薄明るい空気からすぐに知れる。カーテンを通した柔らかな光がうつ伏せの久保田の手の甲に作り出す、骨ばった手の陰影を左隣で寝転んでいる時任がなぞっているのだった。
 うつ伏せのまま、目だけを時任に向ける。
「ん? いや別に」
 咎めるつもりもなく向けた問いに、指はあっさり離れて行った。
 何かの意図を感じさせる触れ方ではなかった。だからきっと、それは眠るまでの手遊びであったのだろう。
「ごめん、起こしたよな」
「いや? 寝てたような、寝てないような」
 睡眠はまだ後回しに出来る。大体いつもまどろんでいるようなものだからか、本格的に眠る時間はあまり必要ないのだ。時任は起きている時は本当に起きているので、よく眠る。互いの睡眠時間の差は、そういうことなのだと、解釈している。
「何、考えてたの」
 だからこれは、時任の為の子守唄のようなもの。意識すれば自分の声がいくらでも柔らかく響くのは知っている。
「別に」
「うん」
「ホントに何でもねぇ」
「うん」
「納得してねぇだろ」
「さぁ?」
「…性質悪ぃぞ、久保ちゃん」
「そうね」
 いちいち掘り返す事もないのだろう。ただの手遊びと放って置けばよかったのだろう。
 しかし、どうせならば良い夢をと思う。ただ眠るだけの自分とは違い、時任は夢を見るようだから。
「聞かせてよ」
 促す親のような優しさ。親を非常に半端な形で知っている自分には、不似合いの真似だ。しかし時任は、多少の逡巡の後にきつい眼差しのまま口を開いた。
「…呆れんなよ? 軽蔑もすんな。怒るな。悲しそうにすんな。聞きたがったのは久保ちゃんなんだからな」
「はいはい。呆れないし、軽蔑しないし、怒らないし、悲しそうにしないよ」
「繰り返すな、馬鹿」
「ごめんね」
 本当にどう答えて言いか分からず、久保田は殊更に優しい声で謝った。それを責めるつもりはないのか、敢えて気づかぬふりをしたのか。
 時任は、常ならば聞かせることのない低く小さな声で吐き捨てるように呟いた。
「羨ましい。…って、一瞬だけ、思った」
「俺の手が?」
 獣の手ではない、ただの手が。
「詳しく聞くな」
 相手の理屈も理由も無視して、どうしようもないことを羨んでしまった自分を恥じる鮮烈な強さ。この種の強さに、時折触れる事がある。
 自分には無いものだから、よく分かる。
 分かる。
 とても美しい我侭だと思う。本能に寄り添う理性が生み出す感情だ。
「俺も羨ましいけど」
「何が」
「時任の本能が」
「…はァ?」
 素っ頓狂な声は、聞き慣れた少し高めの声。
「いいんじゃない?」
「いいかよ」
「時任は、当たり前の事当たり前に思っただけっしょ」
 当たり前の事を当たり前に。特別美しい形だとは思うが、時任のそれは奇異ではない。自然とは本来美しくあるべきものが美しくある状況のことだ。
 だから、醜い羨望とは、自分の中にあるものをこそ言うのだ。
「その程度じゃ、変わらないよ。何も」
 時任の頬の輪郭の柔らかな陰影を親指で辿って、久保田は笑った。
「だからね、もう寝なさい」
 自分が眠りにつくにはもう暫く時が必要になりそうだと思いながら。
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