05:前を向く
「久保ちゃん」
 呼ぶ声に、応えはない。力の抜けきった手は血まみれで、アスファルトの上に投げ出されている。地面を血で汚すその手がどんなに自然な手つきで煙草に火をつけたのか、数時間前まで繰り返されていた筈の光景がもう思い出せなかった。
「久保ちゃん」
 まだかすかに脈はあるが、もう意識はない。
 呼吸も聞き取れない。
 元々高くもなかった久保田の体温が、どんどん失われていく。
 抱きかかえた体はずしりと重くて、支える腕に力が入らなくなってきている。
「なんでだよ…!」
 失うとはもっと特別なことだと思っていた。ある日突然訪れる嵐のようなものだと思っていた。
 時任は全てを覚えている。拾われたこと、共に暮らした数年間に出会った人々、起こった出来事、そしてその時に選んだ選択肢も、全てを覚えている。
 それらの積み重ねで現在はあり、時任の中でも自然に繋がっていった事の結末として、目の前の久保田がいた。
 いくつかの事は退けられた。そして、いくつかの事には抗えなかった。
 その結末だ。久保田は、汚い路地裏で血まみれになって死ぬ。
「っかやろ」
 ずるりと滑った体を抱えなおした。彼の命は抱え切れなかったのだから、体だけは絶対に落とすまいと獣の右手に力をこめる。
 全ての始まりである右手の持つ力がこんな時には本当に役に立つ。それがひどく苦しい。
「俺はなぁ」
 体を抱え込むと、こめかみの辺りに弱く脈打つ久保田の頚動脈が触れた。
 そして、久保田の体は煙草の匂いがした。血まみれの筈なのに、やけにはっきりとした匂いだった。
「俺は」


「…あれ」
「あ、おはよ」
 目を開ければいつもの天井が見える。久保田があまり大っぴらにできないやり方で手に入れた401号室の、広い天井だ。
 そして何を思ったか、ベッドに腰掛けたまま久保田が煙草を吸っていた。いつもならばリビングでコーヒーを飲みながら新聞に目を通している頃だ。
 夢の中で感じた煙草の匂いはこれだったのか。
「お前なぁ、人が寝てんのに煙草吸ってんじゃねぇよ。リビング行けリビング」
「俺もそうしたかったんだけど、これ」
 久保田が左手を動かすと、時任の右手が引っ張られた。
「…あ、わり」
 黒い手袋が久保田の左手首を掴んでいる。標識も引きちぎる右手がどれだけの力で手首を掴んでいるのか自分でも一瞬把握できず、慌てて手を離した。
 何しろ前科がある。
「いや? トイレ行けなくて困ったなーとは思ったけど、それだけだし」
 手首にはくっきりと指の形に痣が残っている。握りつぶしてはいなかったことに安堵したが、それでも相当の力で掴んでいた事は確かだ。
 夢の中でこの手の所為で久保田が死ぬ羽目になったことを思い出した。
「……」
 何か変な寝言を言っていないといいと思う。
「窓開けるよ」
 久保田はするりとベッドを抜けて、窓際に立った。初夏の早朝の涼しい空気が部屋に流れ込む。
「今日も晴れそうだね」
 暑くなんのかな、嫌だなぁといつもの調子でぼやきながら、久保田は寝室を横切ってリビングへと向かう。
「久保ちゃん」
「ん?」
 彼の左手首の赤い痣が夢で見た血まみれの手と重なって、思わず呼び止めていた。
「…手。ごめん」
 本当はもっと別の事を言いたかった。
 いつか起こりうる未来を謝ってしまいそうだった。
「何気にしてんの。こんなの、ただの痣っしょ」
 夢の中で何がどうなって久保田が死んだのか、それはもう思い出せない。ただ時任は、自然な結末として血まみれの彼を抱きしめていた。
 それをただの夢だと笑い飛ばせない。
「それに俺、痛いの好きだし」
 久保田は臆病だといいながら、肉体の痛みを怖れない。
 彼は精神を守る為に体を傷つけることを厭わない。
「久保ちゃ…」
「いいんだ」
 話は終わりだと言うように少し突き放す冷たさを持って久保田は笑い、部屋を出て行った。
「……」
 時任の感じる罪悪感を、久保田が丸ごと受け入れてくれた事はない。励ましたり、今のような物言いをしてみたり、何かしらの手を使ってはぐらかされる。
 時任が罪悪感を覚えるのが自分の責任だと考えているのだ。
(…俺は)
 夢の中で言えなかった言葉がある。今も昔も、そしてこれからも変わらない筈の真実だ。自分の中で絶対的なルールとして抱いていればいいと思っていたが、それを知らずに久保田があんな言い方をするのに腹が立った。
「馬鹿野郎」
 呟いて、ベッドを降りてリビングに向かう。寝室を出れば、もういつも通りのコーヒーの匂いが漂っている。
 久保田は丁度テーブルの上から財布を取り上げたところだった。少し俯き加減の背中に声をかける。
「久保ちゃん」
「時任、食パン切れてるから俺ちょっとコンビ」
「俺はお前が痛いのは、俺自身が痛いよりも嫌いだ」
 久保田の言葉を遮って、半ば怒鳴りつけるような強い声で宣言した。
 ポケットに財布をねじ込もうとしていた、久保田の手が止まる。
「…ニに、行ってくるから」
 いつもの低い声がひどく半端な形で、途切れてしまった言葉を続けた。その不自然さが久保田の驚きを時任に伝えた。言葉はきちんと伝わったらしい。繰り返す必要はないだろう。
「覚えとけ」
 あんな風に、自然なこととして久保田の死体を抱えているのは間違っている。
 あの夢は一つの可能性に過ぎない。だが、可能性の内の一つなのだ。きっと、自らより時任を優先し続けた末の事だ。
 ポケットに財布を今度こそねじ込んで、久保田は俯き加減だった背を伸ばした。
「…分かった」
 理解して、それから先を久保田は言わない。時任も問わない。その必要はない。
 それでも久保田が自分の痛みより時任の安全を優先するというのなら、その時は時任も自分の我侭を通していけない理由がなくなるだけの事だ。
 久保田もそれは分かっているだろう。
 逃げてはいけないことがある。それだけは絶対に間違えられない。どんな形であれ、終わりは必ず来るのだ。
 久保田はそれ以上何も言わずに部屋を出て行った。時任はその場から動かずに見送ってから、大きく息を吸って、吐いた。
 ふと右手に手をやれば、はっきりと震えていた。
(逃げんな)
 痛みも恐怖も悲しみも、無駄なものではない。
 無駄ではないのだから。
 時任は一度右手を強く握り締めてから、顔を上げた。
「逃げさせねぇよ」
 呟いて、玄関に向かって歩き出した。
 勿論、臆病者の同居人を追いかける為に。
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