綺麗な顔をした女だった。優しそうでもあり、嫌味のない柔らかくほのかな香水がよく似合っていた。 時任の語彙では水色のセーターに白いスカートとしか表現しようのない服装だったのだが、どちらも陽光の似合う春らしい色合いで、その色遣いだけでこれまで知り合った女達とは全く違う暮らし方をしているのだろうと思った。 「え?」 雑踏の中でふと目が合った女に知らぬ名で懐かしそうに呼ばれ、どきりとした。しかし時任が何か言うより早く、女は気付いた顔になって口許に手をやった。 「あら、ごめんなさい」 その一言で、タカシという名の誰かに間違われたのだと分かった。 「知り合いに見えたものだから」 「あ…」 ごめんなさいね、ともう一度女は謝り、そしてにこりと笑うとそのまま時任の脇を通り過ぎて行ってしまった。細い背中だ。週末の大通りは人通りが多く、あっという間に見えなくなった。 「……」 懐かしさと共に、親愛の情を伝えてくる声だった。どういう間柄だったのかなど推し量ることもできないが、『タカシ』は少なくとも何か嫌な別れ方をした相手ではないのだろう。 (そっか) 未だ記憶は戻らないが、それでも何となく彼女が自分と無関係であることは分かった。 だが、それでも迷った。 (マジで無関係かなんて、分かんねんだよなぁ…) 歩きだしながら、もしあのままタカシとして話を進められてしまっていたら、一体自分はどうしただろうと考える。 自分は記憶を失っているのだと一から説明しただろうか。 想像したそれは、とても厭な光景であった。 止せばいいのに、想像の光景まで含めた一連の出来事を思い出して、また不愉快な気分になった。 「何が」 不意に隣に立つ同居人がそう訊いてきたので、時任は顔を上げる。 久保田は大きな手を泡だらけにしていた。時任の手の中にも泡の落ちた皿があって、皿洗いの最中だったことを思い出した。 「何って、何が?」 「今『むかつく』って言ったじゃない」 「言ったか?」 全く覚えがない。この場合、気づいていなかったと言うべきか。 時任の常ならぬ様に違和感を覚えたか、久保田は皿洗いの手を止めて言った。 「昼間、出かけたんだろ。…なんかあったか?」 話そうかと迷って、結局時任は首を横に振る。 「いや、別に」 嘘ではない。何もなかった。ただ人違いをされただけだ。ただそれだけなのに、時任が勝手に想像を膨らませて不機嫌になっているのだ。 「ふうん?」 久保田は何か物言いたげな頷き方をし、しかしそれ以上は踏み込んでこなかった。 無言のまま、皿洗いが再開される。 久保田は性格そのままに、非常に適当に皿を洗う。適当にスポンジで汚れを拭い、適当に泡をすすぎ、皿拭き担当の時任の前に置く。よくよく見ると皿の端にかすかに油の曇りが残っていたりするのだが、時任も細かいことの気にならない性質なので適当に布巾で拭いて終わりになる。 が、今日の久保田はいつもより僅かに丁寧に皿を洗っていた。 時任が抱えている何かを吐き出す為には、もう少し時間が必要だと分かっているのだ。 (…くそ) 何故この程度で、嘘をついてしまったと罪悪感を覚えなければならないのか。どうして久保田は、絶対にタイミングを間違えずに自分を気遣うのだろう。もう少し彼の気遣いが的外れだったり、露骨であったりしたら、救われるものもあったかもしれない。何から救われたいのかも分からずに、時任は思う。 「…ああもうむかつく、マジむかつく」 「だから何が」 「うっせ、俺にも色々あんの!」 「その色々、教えてくれないわけ?」 「やだ! 教えねぇ」 「何でよ」 「っつか、久保ちゃんこそ何で知りてぇんだよ」 問い返せば同居人は口許に笑みを浮かべる。時任には、優しい微笑にも意地の悪い含み笑いにも見えた。 「時任を元気付けたいから」 「……」 落ち込んでいる理由など聞かずともいくらでも慰められるくせに、何を言い出すのか。 「くっそもう絶対言わねぇ」 「何で怒るかな」 「怒ってねぇよ」 「怒ってるじゃない」 「ねぇよ!」 こうなるともう何が原因で苛立っていたのか思い出せなくなる。牙をむく勢いで怒鳴る時任を、久保田は面白そうな眼差しで見てくるから余計に腹が立つ。 そのままの瞳で、彼はさらりと言うのだ。 「時任が落ち込んでると、俺も悲しいから」 「うーわすっげ白々しい」 「本心なのになぁ」 本心なのかもしれないが、久保田はこういうどうでもいいようなことについては嘘をつくのがやたら上手いので、どうにも信じられない。 信じられねんだよ、と口中で繰り返し呟きながら、時任は自分の沈んでいた気持ちが浮上し始めていることに気付いた。 時任には浮上し始めたものをわざわざ沈める被虐趣味はない。上がったものはそれはそれでいいのだが、警戒した挙句に元気付けられた自分の馬鹿さ加減にいっそ感動を覚える。 「俺って馬鹿? …だよな」 「ん?」 うん、と久保田が頷かない事は知っていた。 だから久保田が頷いたら、嘘つくんじゃねぇと怒ってやるつもりだった。 八つ当たりといわれたらそれまでだけれど、久保田のように直接的な言葉など無しに『全部分かっている』と告げてやる技術は時任にはない。 「んー…」 さあ否定しろ、さっさと否定しやがれこの野郎。 身構える時任の横顔をちらりと見て、久保田は笑った。 「そうね。たまに、物凄く」 だからこの男は厭なのだ。 |
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