02:右手
 右手が痛むと、どうしても隠してしまう。隠しきれているとは自分でも思っていない。時任の秘密は同居人の協力によって成立する。
 そうやって無視させることは、きっと迷惑になっている。これまでも俯いて痛みを堪える視界の端に、戸惑いがちに長い指がひくりと動くのを何度も見ている。
 手を差し出そうとして、それを躊躇っている。
 普段は何も躊躇うことなしに触れてくる指だが、こういうときにどうしたらいいのか全く分からないらしい。
 大人に囲まれて困って立ち尽くす子供のようだ。
 そう、久保田はただ立ち尽くしている。新聞の集金がインターフォンをさっきから鳴らしているが、そんなものは綺麗に無視している。
 時任も時任で、行けよ、と意地を張ることができない。そもそも声が出ない。言葉も出ない痛みというものは世の中に確かに存在しているのだ。
 痛みが本当にひどい時は息を吸い込むことすら難しくて、治まった後も動けないほどに疲れていることがある。そういう時久保田は大抵何も言わずに買い物も洗濯も夕食作りも全て代わってくれる。
 けれど幸いにもそれほど酷くならずに済んだとき、久保田は時任に容赦なく用事を言いつけてくる。そうやって痛みの後の時間を忙しく曖昧にすることで、時任は何も言う必要のないまま日常にいつの間にか戻っている。
 インターフォンが鳴り止んだ。諦めたらしい。
 そうなるともう、部屋の中には音が無い。
 右手の痛みが作り出すのは無音の時間だ。時任はとにかく隠そうと思って何も言えなくなるし、久保田は見ないふりをするので何も言わない。ただ立って、うずくまる時任を見下ろしている。
 押し殺した時任の息遣いに耳を澄ませて、痛みが薄れるタイミングを間違えずに捉えようとしている。
 また電話でも鳴ればいい、と時任は思う。
 この空間は辛い。自分の中の獣が焦れて叫ぶのが聞こえるからだ。
 きっと久保田も別の理由で同じ事を思っている。
 右手が脈打っている。皮をはがせば構造は人のそれと変わらないのだろうか。痛みの元がどこかにある筈で、それを取り除けば全てが楽になる。組織が痛んでいるのなら、死んでもいいからいっそ切り落としてしまおうか。
 痛みが引かないと、決まってそんな事を思い始める。テーブルの端に鋏が見える。鋏で腕を切り落とせる訳がない。それでも、もっと正体のはっきりした痛みが欲しい。
 久保田の裸足の爪先が、僅か斜めに動いた。いざという時テーブルに駆け寄って鋏を奪い取れるように。
 爪先が二センチ動いただけなのに、駄目だって、と柔らかい声が聞こえた気がした。
 だから留まる。
 息を殺して、フローリングを睨みつけて、無音に怯える獣を押さえつける。
 もう少し、もう少しで楽になる。
 もう少し。
 そう唱え続けて、隠し続ける。
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