01:401号室
 時任の右手は獣の手だ。獣らしい硬い毛に覆われている。見た目にとても暑そうで、夏場になったら剃ってやった方がいいんだろうかと昔悩んだことがあるのは、秘密にしてある。
 今年初めて最高気温が30度を超えたある日、コンビニから帰ってきた時任が叫んだ。
「手袋蒸れるっつーの!」
 お帰りと出迎えるタイミングを完全に逸して、久保田はビニール袋を下げる右手に目をやった。
 熱には強いようだが、湿気は普通に感じるらしい。
「…そうだろうねぇ。うーん、あと今すぐ用意できる手袋って言うと…軍手? 皮手袋よりは風通すよ」
「それも嫌だ。つーか皮手袋の方がまだ目立ち方としちゃマシな気がする…」
「確かに、軍手じゃかっこつかないな」
 獣の手を晒すよりは余程ましなのだろうが、真夏の皮手袋は目立つ。
 長袖を箪笥にしまって暫く経つが、いかにも訳ありな時任の右手は持ち主の意思とは関係なく好き放題に人目を引く。
 皮手袋でも軍手でもミトンでも、この季節に目立たずにいるのは無理だ。その中で見た目としてどれが一番スマートかという話になればやはり皮手袋が一番だった。
 右手だけというのもまた目立つ要因だったが、左手は普通の人の手だ。夏の陽光の下、手袋をして歩き回ればあっという間に手首から先が真っ白なままで日焼けしてしまう。
 世の中上手くいかないものである。
 袋と手袋をテーブルの上に放り出して、時任はエアコンの真下に向かった。
「うあー涼しー…」
 まるでスーパーマンの飛行スタイルの如く右手を突き出し、冷風に晒している。毛の先がささやかな風にそよそよと揺れていて、いかにも気持ち良さそうだ。
 真夏の木陰で熟睡している猫を思い出した。
 時任に頼んだのは乾電池だの空ビデオだのといったものばかりなので、時任の気が済むまで放っておいてもいいだろう。片付けを代わってやろうと思わないのは、躾の一環という名の怠惰ゆえである。何しろほぼ完徹でのバイトを終えたばかりだ。時任も分かっているのか、買い物を頼んでも何も言われなかった。
 そもそも時任は一日二日なら自分の面倒を自分で見られるようになっていた。出したものを片付ける点においては久保田より几帳面なほどだ。
 時任からは時々予想外な所で常識がすっぽり抜けていたりしたのだが、それも季節が一巡りしたあたりで一通り出尽くしたようだ。思えばあの驚きの日々も懐かしい。
 まるで孫の成長を微笑ましく見守る老人のようだ、と久保田は自分で思っておかしくなった。
(…まあ、孫っぽいけど)
「久保ちゃん、セッタ」
 右手の風通しを済ませると、何も言われずとも時任は片付けに取り掛かる。カートンを久保田に放り投げ、カップラーメン二つはシンクの脇へ。ついでに二人分の水を火にかけて、乾電池はいつもの引き出しに。空ビデオはビデオ棚の端に片付け、雑誌はテーブルの上に置いた。
 空になったビニール袋は小さく畳んで食器棚の横のビニール袋をまとめてある袋の中にしまい、片付けは完了だ。そのまま時任はシンクに戻り、カップラーメンの包装を破って蓋を開ける。
 それにしてもあんなに爪の長い右手なのに、ビニール袋を破かず畳めるのは凄い。特に気をつけている風でもないのに、不思議だ。
 一月くらい前はそんなことを疑問に思っていた。
 もっと遡って去年の今頃はもっと大きな不思議に首を傾げていた。何であんな右手をしているんだろうとか、どうしてコントローラーを壊してしまうんだろうとか。日々を経るにつれて、次第に日常の疑問は規模を減じていった。
 今になってみれば、何もかもがちっぽけな疑問だが。
「何だよ」
 じっと時任の動きを観察していたら、やはり気付かれた。
「んー?」
 どういう理由で獣の手になったのかなど、今はもうどうでもよかった。WA絡みの厄介事に巻き込まれるかなと思っても、それならそれで仕方ないかと思う。
(…こんなに)
 ずっとずっと願っていたものなどないというのに、これを切望していたと分かるのだ。
(こんなに)
 久保田は立ち上がって台所に向かうと、無言で時任の右手からカップラーメンを受け取った。やかんを火から下ろして注ぐ。
「な、何だよ」
「こんなに、…望んでたんだなぁ」
 容器の底から小さな泡が立つのを見ながら、呟く。時任は驚いたように目を丸くした。
「…久保ちゃん…そんな腹減ってたのか? だったらパンでもかじってりゃよかっただろ」
「……」
 何でそっちに行くんだと突っ込みを入れようとしたが、よくよく考えたらこの状態では時任の捉え方が普通かもしれない。準備をしていた時任を睨みつけてカップラーメンを奪い取って湯を注いだように見えなくもないからだ。
 自分もコミュニケーション能力に欠落している部分があるなぁと再認識して、おかしくなった。
「まあ確かに腹減ってるけどね」
 蓋を閉めて、その上に割り箸を置いて、時任の右手に乗せる。
「俺は望めば手に入るものなんか望まないよ」
 少しだけ意図は伝わったようで、時任は僅かに頬を赤くした。
「…ラーメン目の前にして言う台詞じゃねぇだろ」
 それでも、嫌ではないようだ。そうねと頷いて、久保田は自分のラーメンにも湯を注いだ。
 思った事を思った通りに伝えるのは、意外に難しいものだと思いながら。
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