深く沈んで抜け出せない。しかし不快ではなく、その世界の構成要素全てが柔らかく肌に触れて思考を奪う。 何もない。指を動かして触れるものは何もない。それなのに、何かに包まれていた。 恐怖すら奪われていた。 「……」 昔の夢だ。昔の話だ。 全て昔の出来事だ。 存在のない世界が存在している。 (…矛盾、というか…それ以前の問題だなぁ) 何故そんな言葉が出てきたのか、それすらも分からない。とにかく奇妙な夢だ、と久保田は思った。 「暑ィ…」 ぐらりと隣が揺れて、よく知った温かさが身を起こす気配があった。 「久保ちゃん?」 寝起きの擦れた声は、闇の中手探りで誰かを探す仕草に似ている気がする。 だから出来るだけ答えてやりたいと思う。 「何?」 「熱が出てる」 「ああ、うん」 時任が言ったのは、久保田の話だった。 症状を自覚できるのだからきっと大した事はない。そう自分では思ったが時任はそう考えなかったらしく、皮手袋をはめていない左手が額にそっと触れて、離れた。 「平気」 「うん。分かる」 不思議なことに、久保田が熱を出して時任は不安を覚えたらしかった。心配ではなく、不安だ。縋るように確かめるように触れる、そのやり方が久保田にそう伝える。 「季節の変わり目だからねぇ。どこでもらったんだろ」 雀荘か、コンビニか、それとも道端か。 「久保ちゃん、薬飲むか?」 「いいよ。っていうか、期限切れた薬しかなかった気がするなぁ」 「……朝んなったら、薬屋行く」 「悪いね」 本当は薬なんか飲んでも飲まなくてもどうでもよかった。ただ、時任の不安がそれで消えるならばと思った。 再びベッドが軋む。熱のある体の隣は暑いと言った時任は、それでも隣に寝るつもりのようだ。 「暑いんじゃないの?」 「お前が寒ィだろ。俺は風邪なんかひいてねぇんだから、いいんだよ」 「優しいね」 「当たり前の事だろ。別にいいんだよ。ここにいるから、寝ちまえ」 時任は知っているのかもしれない。この何もない世界で、彼だけが真実だ。 ただ一つきり、しかし確かに存在しているのだ。 「寝ちまえ」 繰り返し命じる声の、迷いの無い響きがいい。彼の声に安堵を覚えたのが、意外と言えば意外だった。 手探りで探していたのも不安を覚えていたのも本当は自分だったのかもしれない、と久保田は思う。 「……病気の時は、心細くなるって言うしねぇ?」 「あ?」 「いや、お前がいてよかったわって話」 「…熱出してる久保ちゃんがそういうこと言うと、何か困る」 「何で?」 「いつもなら『何言ってんだよ』で済ませられるけど、そういかないから」 「そうしてもいいのに」 「できるか。俺様は女子供と病人には優しい主義なんだよ」 「優しいお前も、なんか困るね」 「何で?」 「縋りそうになるから」 暗闇の中の呟きに答える声はなかった。時任は毛布を再びかぶり、久保田に背を向けるようにして寝る。 その背中が、いつもより少し近かった。 |
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